睡眠失格

まただ…。せっかくの休日だと言うのに、4時半に目が覚めた。

ここ最近の私の睡眠はまったくもって奇怪である。というのも、寝ている間中ずっとガチガチに力んで、全身の筋肉を硬直させているような感じがあって、寝ているにも関わらず疲労困憊、クッタクタで、「疲れたあ…」としみじみ思った拍子に目覚めてしまう―という訳のわからない状態が続いているのである。まるで、寝ている間中ずっと筋トレをしているような感じで、目を覚ました時の身体のだるさが半端ないのである。

ひょっとしてこれ、俗に言う「金縛り」ってやつか?でも、金縛りってこんなに筋トレか?わからん。とにかく今日はもう起きて、コーヒーを淹れて、遠い目をして煙草を吸いながら、「ブルース…」と呟いて、目覚めのローリングストーンズでも聴くといたしましょうか…。


誤解されやすい人のことをベタに誤解していたことに気付いた時ほど情けないものはない。心から、悪いことをしたと思う。

あの人は、私なんかよりずっと優しい人で、私と違って、他人に誤解されることを恐れていない人で、他人に誤解されることを恐れていないがゆえに、誤解される人だ。

もっと…もっとちゃんと人間を見ないと。

寂しい人ほど、天真爛漫を装う。


まさや報告書

昨日は、仕事の後、職場の先輩と、宝塚の小林にある『まさや』という焼鳥屋さんで飲んだ。

「とにかくビールが美味い」と先輩はおっしゃっていたのだが、まったくもって異議なし。というのも、常にグラスが凍っているのである。何度頼んでも、グラスが新しいものに交換されて、カッキンカッキンに凍っているのである。よく、「ビールは一杯目が美味い」というが、あれだけ毎回、グラスがカッキンカッキンに凍っていると、毎回が一杯目の美味さで、さらに一杯¥200という安さで、生と黒とハーフ&ハーフが選択できるので、気付けば一杯目のビールを十杯くらい飲んでしまっていた。

焼鳥も、びっくりするくらい美味かった。私は、いまだかつてあれほど丸々とした三角を見たことがないし、また、豚バラ、せぎもなどは、超弩級の美味さで、これにまさや自慢のにんにくダレをつけた日にゃもうたまらない。

昨日まで、私の中で、美味い焼鳥屋というと、大阪の『しゃも三郎』、京都の『鳥清』だったのだが、一夜にして、宝塚の『まさや』がトップに躍り出た。

高くて美味いのは当たり前。安くて美味くなきゃ―まさやはまさに、安くて美味い焼鳥屋の名店であった。今度、旧友を招待した際には、あたかも「私がこの店を見つけたのだよ」みたいな顔をして、旧友からの敬意をゲットしてやろうと目論んでいる。

久々の二日酔いが心地よい。人生が、ジリジリと良い方向に進んでいる。


今朝の喝

5時起き―本日、早出デビュー。

The ViewというUKのゴギゲンなロックンロールバンドのCDをウォークマンにブチ込んで家を出た。

とにかく、視野を広く持って、がむしゃらに動こう。

明るく積極的にっ!


女性への言葉

ボーリングと同じで、真っ直ぐ投げたつもりでも、若干曲がると思っておいた方が良い。従って、曲げる意識をもって投げた場合には、想定以上に曲がることになるのは言わずもがな。

常に、曲がることを計算に入れて投げねばなるまい。

女性への言葉―常時、「一球入魂」が求められる。


恋について

最近、チョコレートをよく食う。

甘い食べ物の代名詞―チョコレートでさえも、食い過ぎると、辛いというか苦いというか…みたいな味になってくる。

そういうことなんだな。残念ながら。


羽根が生えた

最近気付いた最大の事柄は、私という人間が、相当に「天然」であるという事実で、これには本当に驚いている。

「どうも最近、すっとこどっこいが過ぎるなあ俺」と思っていて、でも私は、自分のことを天然だなんて思ったことがないから、「天然」という言葉自体が浮かばず、自分のすっとこどっこいっぷりに違和感だけが残って、「こんなはずではない」などと言って、上手く消化できないでいたのだが、昨日、私という人間を一言で言い表す必要に迫られて、考えた結果、ものの2秒で浮かんだ言葉が「天然」だったのである。どうりで最近、不意に笑いをとれるようになったなあと思ったら、そういうことだったのである。

私は一体いつから天然なんだろう。ひょっとしたら、昔から相当に天然で、私だけがそれに気付いてこなかったのだろうか。
私には、私の旧友たちが私に対して、「天然」というイメージを抱いているとは思えないのだが、ひょっとしたらこの読み自体が、相当にすっとこどっこいなのだろうか。

良くも悪くも、私は、私という人間は「思考の人」だと思っていた。天然の真逆をいく人間だと思っていたのだが、そこはやはり「稚性の人」。稚性に基づいた思考の連続によって天然の真逆の真逆をいったら天然だったというのがどうやら正解らしい。

天然―悪くない。っていうか、「思考の人」ではないことが判明して、35年目にして肩の荷が下りた感じだ。今後は天然らしく、軽快に生きていこうと思う。

なんだかまるで、背中に羽根が生えたような気分だ。


ライフアート

音楽についても、恋愛についても、人生についても、評論は評論家に任せて、私はただ、作り続けておればよろしい。

作り方を知っているにも関わらず作れない人間よりも、作り方を知らない分際で作れる人間でありたい。そして、想像力のわりに作り方を全く知らないがゆえに、ちょっといびつな、歪んだものを、誰より上手く作れる人間でありたい。


SMILE

楽しいから笑顔なのか、笑顔だから楽しいのか―ということを、最近、よく考える。

結論から言うと、どちらも正解で、どちらも間違いではないのだが、後者の「笑顔だから楽しい」という風に考えることができるようになるというのは、本当に素晴らしいことだと思うし、その発想の深みの中に、「大人」の顕れがあるように思う。

鬱的状況を打開しようと思えば、まず笑顔からだと思う。笑顔から変わってくるものって、絶対にあると思う―といって、こういった種類の言葉をロクに噛み締めもせずに一蹴するのが、「子供」であり、「若さ」であって、それはそれで素晴らしいと思うし、私は決して嫌いじゃないんだけど、ある程度長く生きてきた人間がそんなことじゃ困るだろう。

「笑顔」という答えをとりあえずまず出す。すると、その答えを成り立たせるための数式が、答えの周りに集まってくる。

問題がまずあって、そこから答えを導き出す―というのが日本の教育であるのに対して、始めに答えがあって、その答えに対して幾通りもの問題を考えるというのが西洋の教育―という話を以前、どっかで聞いたことがある。

もし、理屈や理論抜きに建てられる家があるのなら、勢い一発、とりあえず建ててしまえばいいと思う。そのうち、「理屈も理論もないような家が建ってられるか!」と言う人間が現れて、家に、頼みもしないのに、理屈や理論をいっぱいぶら下げてくれるだろうから、時期を見計らって、「よくわかりましたねっ!」とかなんとかテキトーに言って、家も、理屈も、理論も、ぜ〜んぶ我がのものにしてしまえばよろしいのでないかと存じます。

本来、笑顔などというものに、理屈も理論もないんでございますから、勢い一発、建ててしまえばよろしいのではございますまいか?