今日、私は、梅田界隈をブラブラしてきた。で、これを発見して迷わず購入した。
オフィシャルのキーホルダー。たかがキーホルダーの分際で千円以上した。でも、さすがはオフィシャル。重量感があり、ガッチリしていて、非常によくできている。
オアシス―解散した今も死ぬほど好きだ。
オアシス―そんなに遠くない未来に復活して、死ぬほど素晴らしいロックンロールアルバムを発表して、一瞬にして世界一のロックンロールバンドに返り咲いてくれると思う。
なんせ、あのバカ兄弟が仲直りすりゃいいだけの話なんだから。
先日、ある人が私の隣に腰掛けて、しみじみこう言った。「女って怖いねえ。なんで死滅せえへんねやろ…」
落雷―私は腹を抱えて笑ってしまった。最近聞いた言葉の中で一番面白かった。
雲一つない晴天の昼下がり。遠い目をして、真顔でそんなことを言われた日にゃ。
再三、私の自尊心を踏みつけた、あの女の溜め息や、舌打ちや、嘲笑が、今や私の原動力だ。
私が落ちぶれたら、あの女は嬉々として笑うんだろうから、私は落ちぶれてたまるかと思って、奮起して、何事にも体当たりでぶつかっていける。
私が逃げなくなったのは、闘えるようになったのは全て、私が闘わずして逃げだすことを期待しているあの女のおかげだ。
あの女の歯軋りを鼻で笑いながら生きていきたい。
私は今、35であるが、肉体的にも、精神的にも、「下り坂」的なものを一切感じていない―といって、これは、強がりでもなんでもなく、紛れもない本音で、正直、数年前の自分の方が断然老いていたと感じている次第である。
相変わらず、悲しいくらいにガキンチョです。
でも、ま、考えてみれば、まだ35年しか生きてないんだから、ガキンチョとしか言い様がないやね。
まだまだ何も知らない、クルクルパーです。
残念ながら、人間には所属欲というものがあって、誰かに、どこかに所属して、庇護してもらう代わりに、何らかのルールを守らねばならんようになるわけで、だから、そもそも、誰にも、どこにも属さなければ、庇護されることはない代わりに、ルールに縛られることもないわけで。
「自分らしい生き方」というのは、いわばパイオニアとしての道を行くわけで、未開の地を切り拓いて行くわけで、前例がなくて参考資料がない分、大変だとは思うが、でも、なんだかよくわからない、理解、納得、合点する前に飲み込まざるを得ないような不可解なルールに縛られて生きるよりはずっと良いように思う。
とはいえ、100%なにものにも属さずに生きていくというのは、よっぽどの天才か、変人か、アホでない限り、無理な話だ。でも、属する世界と、「生きていく上で必要なもの」を厳選して、必要最低限に絞ることは、誰にだって出来ることで、努力の問題だと思うから、私は、やる。
どう考えても、「自己犠牲」は愛じゃない。
東京の落語でよく、最低な野郎のことを、「女の腐ったようなの」って言うけど、自己犠牲ってのはまさに、「愛の腐ったようなの」だと思う。
自己犠牲って、恩着せがましくて大嫌いだ。
恩着せがましいものが、愛であろうはずがない。
「人のために生きなさい」という言葉ほど間抜けな言葉はないと思う。だって、そんなことわざわざ言われなくたって、みんな、ちゃんと人の為に生きてるし、みんな、そうやって生きることを強いられて生きてるんだから。
今、どうせ投げ掛けるんなら、「自分のために生きなさい」が正解だと思う。
みんな、自分のことをないがしろにして人のために生きてて、それはそれで本当に立派なことだとは思うけど、でも、それって本当は、全っ然人のためになってないんじゃないかと思う。
「自分への褒美」という言葉が大好きだ。庶民のかわいらしさが滲み出ていて良い。だから、この言葉にいちゃもんを付けるような野郎が大嫌いだ。
女の人が言う分にはそんなに不快じゃないんだけど、野郎が「自分への褒美ってなんやねん」って言ってるのを聞くとイライラする。そんな毒はいらないし、そんな毒は面白くもなんともない。
どうせ吐くなら面白い毒を吐け。
庶民的なかわいらしさがわからなくなった時、男はオッサンになるんだと思う。要は、情緒感の問題で、情緒感の問題は、精神年齢の問題。
明後日、私は休み。何の用もないけど、最近頑張ってる自分への褒美として、梅田か三宮に繰り出して、ブラブラしようと思っている。
梅田ならカッパ横丁界隈?
三宮なら高架下界隈?
迷いに迷った挙句、一枚、「これだ!」というCDを買って、それから、一人でバーにでも入って、渋く呑んでみよっかな。
善しにつけ、悪しきにつけ、私は自由だ。