世界の不思議

昔から不思議に思っていたのだが、私が働いている世界には、バツ(離婚歴)の付いている人が非常に多い。そして、仮に彼氏彼女がいたとしても、全っ然うまくいっていないという人が圧倒的に多くて、とどのつまり、「独り身です」という人が圧倒的に多いのである。

かくいう私もバツイチだが、バツが付いているということがちっとも珍しいことではない世界。「あ、そうなんや。私(俺)もそうやで」という会話がさらりと交わされる世界。それが私の働いている世界であって、そして、考えてみれば、私もまた、どういうわけだか、バツが付いて色々と考えた末に、この世界に舞い戻ったのであって…実に不思議である。

最初に働いた施設では、ベテランさんの大半に離婚歴があったし、その次に働いた施設では、年配の人に結婚している人はいたものの、結婚していない若い人の全員に彼氏彼女がいなかったし、その次に働いた施設では、結婚している人が二人だけいて、一人は幸せそうだが一人は不満の塊で、あとはみんな、離婚歴があるか、彼氏彼女がいないか、いても全っ然うまくいっていないかのいずれかだった。

全くもって、不思議だとしか言い様がない。まあ、男女間そのものが、そして、結婚という制度そのものが、不思議としか言い様がないのだが。


人の品格

男女を問わず、「消極的」というのはみっともない。

魅力的な人間の共通点。それは、明るく前向きに「積極的である」ということだ。

待ってちゃイカン。自分から行かなきゃ。他人が動くのを待ってるのって、度を超すと卑怯だし、下品だ。

男女を問わず。


50/50

怠ける時は怠け過ぎて、「怠惰」という言葉の権化のようになってしまう一方で、頑張る時は頑張り過ぎて、「玉砕」という言葉の権化のようになってしまう私は、今後、「維持」とか、「持続」とか、「継続」とかいう言葉を人生のテーマに掲げるのであれば、この両極端な気質をまず、何とかしないといけない。

頑張りながら力を抜いたり、力を抜きながら頑張ったりという絶妙なバランス感覚を、一刻も早く身につけないといけない。

我、「不器用」の権化なり。


自由について言及

「『自由』って言葉を軽々しく扱ってちゃ駄目だよ。『自由』って言葉の本当の意味、君、考えたことあんの?世間はそんなに―」などと言ってる自称大人に限って、自由という言葉の本当の意味を、我に都合よく湾曲して捉えている。そしてそれを、他人に強要して笑っている。で、無様に老いていく。

自由は自由。
自由の何が悪い。
本来、完璧に良い言葉だ。

ひねた根性、ひねた鏡。
素直な精神、素直な鏡。

そこに『自由』が、いかに映し出されるのかというだけの話だ。


二日目を終えて

この仕事に真摯に取り組んでいれば、いずれ必ず、名曲を書けると思った。

昨日は何年ぶりだか、一切音楽を聴かなかった。でも今夜は、明日が休みなので、酒を飲みながらCDをとっかえひっかえ聴いているのであるが、これがまた何年ぶりだろう、めちゃくちゃ「聴こえる」。身体中の毛穴から音が、メロディーが入ってくる。
私の、音楽に対する吸収率が上がっている証拠だ。

明日は一日、今度のライヴの練習にあてる。

ロックンロール―これはもう本当に、私の軸であり、唯一、「信仰」と呼べるものだ。だから絶対に放さない。

介護職だって、ロックンロール魂があるからこそ、頑張れるし、「楽しい!」と思えるんだから!


初日を終えて

初出勤。面接の時と同じく、雲一つない晴天に恵まれた。そして―

「伊丹万歳!」と思った。

先輩介護士の皆さんも、ナースの皆さんも、みんな本当に良い人たちばかりだし、不安はかなりあったものの、一念発起、介護職に戻ることにして本当に良かったと思った。もう一度、ちゃんと勉強し直そうと思った。

4日間の研修の後、5日目から一人立ち。

なんとかなるだろう。
なんとかせねば。
なんとかしてやる!

この職場と、介護士としての自分を末永く維持して、その上で、自分の人生を、自分らしく、面白く組み立てていきたい。


前日地獄

いよいよ明日、介護職復帰である。

介護関連の本を数冊買ってきて熟読。記憶を呼び覚ますべく予習はしたが、いかんせん2年のブランク―緊張と不安のあまり、吐きそうである。食欲皆無。今日は、朝から何も食っていない。バナナ一本、食えない。本当である。

私が、意を決して、介護の世界に飛び込むことにしたのは、今を遡ること4年。大阪の「井高野」という所にある老人施設で働くことになったのだが、その初出勤前日もやはり、私は食欲皆無であった。自宅のベランダでずっと煙草を吸っていた。そして翌日、出勤したらしたで、緊張と不安のあまり、何も食えなかった。昼飯を食う気が微塵も起こらなくて、そんな私を見かねて、「アカンやんか」と言って、ジャムパンをくれた先輩が数年後、私の彼女になっていた―ということもあった。

今とは違って、あの時の私は、無資格未経験であった。がしかし、あの時と今と、緊張と不安の度合いは全く変わらない。寸分狂わず同じである。

明日、私は昼飯を食えるだろうか。たぶん大丈夫。食えると思う。カップラーメン。万が一食えなかったとしても、きっと誰かが、「アカンやんか」と言って、ジャムパンをくれると思うから大丈夫。


読者数1000突破!

先程、当ブログの管理人から、今月の読者数について報告を受けた。
携帯読者数の伸び率がひゃんぱない。

PC読者数/287
PCアクセス数/691

携帯読者数/833
携帯アクセス数/1696

単純計算でいくと…まさかの読者数1000突破!

なんで!?


伊丹愛に溢れて

伊丹人には伊丹人の「伊丹人気質」というものがあって、私はやっぱり、これが一番しっくりくる。
伊丹人には、「ま、俺(私)、言うても田舎者やから」という部分があって、これが大阪人や神戸人にはない、伊丹人特有の愛嬌と優しさと品に繋がっているように思う。

大阪人というのは、私に言わせれば、みんな、基本的にヤンキーである。男女を問わず、気質そのものが、良い意味でも悪い意味でも、ヤンキーである。商人のプライドを笑いで割ったらヤンキーになった―という感じである。

一方、神戸人は、プライドの塊である。そして、このプライドを笑いなどで割る気が一切ない。プライドを純和風的に飾る京都人に対して、神戸人は自らのプライドを西洋的に飾る。大阪人が良くも悪くも男性的であるのに対して、神戸人は良くも悪くも女性的であるから、神戸の男は見ていてちょっとイライラする。

伊丹人気質というのは、要するに、大阪人気質と神戸人気質の中間である。大阪人ほどヤンキーではないし、神戸人ほどエレガントでもない。でも、大阪人よりエレガントで、神戸人よりヤンキー。そこへ、「自分は田舎者」というコンプレックスが絡んでくるので、伊丹人というのは、非常に面白い人種である。

だから、伊丹人が最も苦手とする近隣住民は、京都人ではないかと思う。京都人のプライドは、あれは、なんだかよくわからん。妙に鼻につく。腹立つ。
伊丹人の中に、あいつらと近しい要素をまるで認めることができない。あいつら京都人は、あれは、たぶん、外人だろう。

だいたい、昔から、「京美人」などと言って、京都には美人が多いなどというが、私に言わせれば、京美人などというものは、神戸美人の足元にも及ばない。ま、伊丹美人は、京美人の足元にも及ばんが…。
でも、でも、たまにいるよ。もの凄い美人が!隣の宝塚に行けば。

そんなこんなで、私はやっぱり伊丹が、伊丹人が大好きだ。