阿仁真梨「……?」
復帰志願者の手記
この2年間、老人介護について色々と考えた。そして、この1年間、ことあるごとに思い出したのは、老人施設で働いていた時のことだった。
めちゃくちゃキツかったはずなのに、どういうわけだか、楽しかったという印象しか残ってなくて、心から不思議に思っていた。
そんな中、今回の求職活動に於いて、私はまた介護職に戻ろうと考えた。資格もあるし、経験もある。でも、今回は、介護職は介護職でも、障害者施設で働きたいと思った。
元々私は、障害者施設で働きたくて、介護の世界に足を突っ込んだ。でも、当時、私には家族があったので、障害者施設では給料が安過ぎるという理由から、老人施設で働くことにしたのだが、今回は、あの時ほど、給料のことについてこだわらなくても済むので、元々やりたかった障害者介護の方向で、求人を探し始めたのである。
が、これが全然見つからなかった。
勤務日数や勤務時間の安定しない訪問介護の求人はあっても、施設(障害者デイサービス)の求人が、全く見つからなかった。そこで一度、訪問介護の方で面接を受けてみたのだが、私にはない資格を持っているオッサンに負けて、不採用に終わってしまった。
介護職に戻りたいものの、障害者施設の求人がない―となると、残された道はひとつ。「老人介護」ということになるのだが、いざそうなってみると、老人施設で働く身に戻ることについて、自分でも不思議なくらい、何の抵抗も感じなかった。
老人施設の求人は山のようにある。伊丹だけでも、私の希望条件を満たす施設が105件もある。今日、その中から一件を選んで、ハローワークに紹介状を発行してもらった。
介護職というのは、「やむを得ず」やるものではないと思っている。「やりたくてやる」というのが当然の礼儀だと思っている。
正直、以前、老人施設に就いた時は、お金のために「やむを得ず」だったが、今回はちゃんと、「やりたい」と思えている自分がいる。色々と考えてきた結果、そうなっていた。
次回面接は29日。地元伊丹の有料老人ホーム。しっかり「自分」を出して、是が非でもものにしてやろうと思っている。
男でよかった
まずは落ちついて、机の前に座り、ゆっくり深呼吸をする。それから、方々から取り寄せた資料を分析して、迷いながらも、「これは違う。これも違う」と呟きつつ、ひとつひとつ削っていき、徐々に的を絞っていく。そうして、二者択一、究極の選択というところまできたら、ここで頭の出番は終わり。さようなら。頭のスイッチをOFFにして、できる限り動物に近い生き物になって、嗅覚の嗅ぎ付けるに任せる。そうして嗅ぎ付けたものはもう絶対に疑わない―ということを考えるところまでようやく来れたらしい今朝の私は、かつて、母親の腹の中にいる時、自分が男になるのか女になるのかを選ぶ時にも、これと同じことをしたんだろうなと思った。
あの時、まだ人ではなかった私の嗅覚は、男になることの方を嗅ぎ付けて選んだ。それは正解だったのか―正解だった。
私は、女という生き物が大好きだが、大好きだからといって、私が女になってしまったのでは、女と恋愛ができないし、それよりなにより、男と恋愛せねばならんかったんだから。なぜ好き好んで野郎と恋愛せねばならんのかという話だ。だから、男になって正解だったし、そういう意味では、私は生まれる前から女好きだったと言える。
女好きが高じた女性願望―ないわけじゃない。ないわけじゃないけど、好きなことは仕事にしないほうが良いと昔から言うからね。
男でよかった。
いいえ私は商店街のカオス
人間の「勘」とか「直感」とかを考える時、私はいつも、商店街などでよく見掛けるガラガラくじ(取っ手を持ってガラガラ回したら色のついた玉が出てくるやつ)が頭に浮かぶ。
あれをガラガラ回している時、ガラガラの中はえらいことになっている。無数の玉が乱暴に掻き回されて、どちらが上でどちらが下だかわからない阿鼻叫喚の世界。カオス。で、そのカオスの中から、一個だけ玉がポンと飛び出してくる。私は、あのポンと飛び出した一個の玉が、人間の勘であり、直感なんだと思っている。
出口を探して、迷いに迷って、考えに考えて―この時の人間の頭は、ちょうどあのガラガラがガラガラいって回転している状態にある。
頭の中に、無数の言葉や、感情や、考え方があって、これが複雑に入り乱れていて、まさにカオスそのものなのだが、そこからひとつ、玉が飛び出してくる。
無数の言葉や、感情や、考え方が、ギュッと凝縮されて、塊になったものが、手の平の上にポンと落ちてくる。そしてこの塊は、小さいとはいえ、驚くほど多くの要素が神憑り的な手法で練り込まれた塊なので、見た目は至ってシンプルながら、そこに含まれている情報量たるや莫大で、さらに恐ろしく密度が高く、その意味を紐解くのはほぼ不可能で、仮に紐解こうとすれば、塊に含まれている情報量の全てが瞬時にして頭に逆流して、たちまち混乱、迷宮入りしてえらい目に遭うのは分かりきっているから、大抵の人はあえて、この塊の意味を紐解こうとは思わないんだろうと思う。そもそも、勘や直感は分析するものではない。分析の果てに出てきたものをさらに分析してどうするんだという話だ。
人間の勘や直感って、ある種宝石のようなものだと思う。宝石のようなものだからこそ、魔力的なものを秘めているかのような魅力があって、「閃く」という言葉自体に、「キラッと光る」みたいなイメージがあるのは、そういうことなんだろうと思う。
でも、ま、宝石みたいなもんとはいえ、大概は、「6等です」って言われて、ティッシュペーパーと交換されて終わりなんやけどね。まさか、「いいえ!私はこの玉を持って帰ります!」とは言えんしね。
あれま記念
今日、伊丹最北端は雨だった。が、夕方には止んで、私はコンビニエンスストアに、散歩がてら買い物に出掛けた。
道中、空を見上げると晴れ間が出てきていたので、心の中で、「晴れ間が出てきているな」と呟いたのだが、私はこの時、「晴れ間」と「あれま!」は母音が一緒だなと思い、さらにまた、「あれま!」と「アメマ」の母音も同じであることに気付き、ということはつまり、「晴れ間」と「アメマ」は「あれま!」経由で母音が同じだということであり、ということはつまり、「晴れ間はアメマなのか?」と思いました
阿仁真梨「病院行け!」
鬼才に望みを
「天才とは、1%の閃きと99%の努力」と言ったのはトーマス・エジソンだが、「天才」という言葉に、「天賦の才」という神憑り的な意味合いがあることを思うと、努力の占める割合が99%というのは、なんだか納得できないのであるが、ある人に言わせれば、それだけ努力できる才能を持っているということが天才なんだよということになり、ということはつまり、天才というのは、「努力の才能に溢れた人」ということになって、要するに「努力の人」なわけで、だから私は、私のようなアホンダラは、絶対的に天才ではないのである。無念。
がしかし、こんな私にもまだ希望は残っている。というのも、「天才」の上に「鬼才」というものがあり、鬼才の人は努力の人ではなく、突然変異的に生まれた人で、一歩間違えりゃ気違いのような人のことである。
そこで、私の思う天才と鬼才を書き出してみたら以下のようになった。
天才 北野武
鬼才 松本人志
天才 王貞治
鬼才 長嶋茂雄
天才 ポール・マッカートニー
鬼才 ジョン・レノン
このように、天才には努力臭があるのだが、鬼才には努力臭がない。また、天才は日々のたゆまぬ努力の中で、数多くの知識を培うので、知的であり、かつ上品でもあるが、鬼才は全てを感覚に頼る分、知識に乏しく、どこか間が抜けていて馬鹿みたいである。
例えば、マッカートニーは、レコーディングの際、自分のアイデアを理論的に語れたが、レノンは、「こうね、何かがガアーッ!と上がってってね、それからそれがドーン!って突き抜ける感じ!」といった語り口だったらしい。さっぱりわからん。
というわけで結論―天才が「1%の閃きと99%の努力」であるのに対して、鬼才は「1%の努力と99%の閃き」なので、私は、天才は無理でも鬼才にはなれそうだから、これから、鬼才になる為の努力を日々怠らず、頑張って生きていこうと思っている。
好きなギタリストBest10
俺、またギター弾くんだから、この辺、ハッキリさせとかんとね。それに、俺の好きなギタリストって皆さんあまり知らないでしょ?今まであまり明かしてこなかったしね。実はこんな人たちが好きなんですよ。
1位/キース・リチャーズ(ザ・ローリング・ストーンズ)
2位/バーナード・バトラー(ex.スウェード)
3位/ポール・ウェラー
4位/山口富士夫(ex.村八分)
5位/ジ・エッジ(U2)
6位/ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)
7位/古市コータロー(ザ・コレクターズ)
8位/蝶野一憩(バタフライ)
9位/ニール・ヤング
10位/ジョン・スクワイア(ザ・ストーン・ローゼズ)
ひだの数だけ音楽を
私は、一軍二軍合わせると、300枚近くのCDを有している。にも関わらず、暇さえあれば中古CD屋に、ある種の飢餓感を引きずりつつ足を運んでいる。
何故か―人間一人の心のひだの数は、300やそこらで語れるものではないからだ。
たまに本当に思うよ。「しっかしまあ聴くもんねぇなあ…」って。
レイドバック・マン
私は、携帯電話を日々遺憾なく駆使しているし、また、音楽を聴く際には、レコードではなく、コンパクトディスクを何回転だか知らぬが回転させている。
でも、私はデジタル的なものが嫌いで、アナログ的なものが好きだ。
デジタル的なものが好きな人は、アナログ的なものを「貧乏臭い」と言うが、私に言わせれば、デジタル的なものは、リッチかリッチでないかという問題以前に、「そこに人間がいない」と思う。そうして、寂しくなる。
人の温度がない。人の匂いがない。ただただ、孤独を誘発するもの―デジタル。
「デジタル」という言葉を聞いて、私が真っ先に、生理的に思い浮かべる言葉は、「自分の居場所ではないもの」もしくは、「自分から居場所を奪うもの」だ。

