鬼才に望みを

「天才とは、1%の閃きと99%の努力」と言ったのはトーマス・エジソンだが、「天才」という言葉に、「天賦の才」という神憑り的な意味合いがあることを思うと、努力の占める割合が99%というのは、なんだか納得できないのであるが、ある人に言わせれば、それだけ努力できる才能を持っているということが天才なんだよということになり、ということはつまり、天才というのは、「努力の才能に溢れた人」ということになって、要するに「努力の人」なわけで、だから私は、私のようなアホンダラは、絶対的に天才ではないのである。無念。

がしかし、こんな私にもまだ希望は残っている。というのも、「天才」の上に「鬼才」というものがあり、鬼才の人は努力の人ではなく、突然変異的に生まれた人で、一歩間違えりゃ気違いのような人のことである。
そこで、私の思う天才と鬼才を書き出してみたら以下のようになった。

天才 北野武
鬼才 松本人志

天才 王貞治
鬼才 長嶋茂雄

天才 ポール・マッカートニー
鬼才 ジョン・レノン

このように、天才には努力臭があるのだが、鬼才には努力臭がない。また、天才は日々のたゆまぬ努力の中で、数多くの知識を培うので、知的であり、かつ上品でもあるが、鬼才は全てを感覚に頼る分、知識に乏しく、どこか間が抜けていて馬鹿みたいである。
例えば、マッカートニーは、レコーディングの際、自分のアイデアを理論的に語れたが、レノンは、「こうね、何かがガアーッ!と上がってってね、それからそれがドーン!って突き抜ける感じ!」といった語り口だったらしい。さっぱりわからん。

というわけで結論―天才が「1%の閃きと99%の努力」であるのに対して、鬼才は「1%の努力と99%の閃き」なので、私は、天才は無理でも鬼才にはなれそうだから、これから、鬼才になる為の努力を日々怠らず、頑張って生きていこうと思っている。


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