伊丹最北端、昨夜の月。
…特に意味はない。
今日は我が娘の誕生日。5歳になった。
私も親父の端くれ。何か贈りたいとは思うものの、十中八九送り返されてくるだろうから、代わりに念というか、願というか、祈りというか、想いというかを送り届けることにした。これなら、本人に直接届くわけで、誰の手も介さないからね。DNAが繋がってるんだから、迅速且つ的確に届くだろう。
写真は、私が勝手に娘の象徴だと思っている花―スノーフレーク。保育園の送り迎えの際に、二人でいつも通り抜けていた公園の花壇に咲いており、私が何度「この花の名前はスノーフレークやで」と教えても、翌日にはキレイに忘れて「チューリップ」などと言っていた娘も早5歳。
誕生日おめでとう!今日はとことんチヤホヤしてもらえよ!
筋道立てて考えたってしょうがないやね。我が身に降りかかる物事自体に、全く筋道が立ってないんだから。
いや、もしかしたら本当は、我が身に降りかかる物事自体には、ちゃんと筋道が立っているのかもしれない。でも、我が身に降りかかってくる物事ってのは、デカいのがたまに一つ二つボットンボットン…ってわけじゃないからね。大小含めて無数の物事が、色んな角度からひっきりなしに降りかかってくるわけで、それを一つ一つ手に取って、それぞれの筋道を辿ってる暇なんてありゃしないよね。
自分勝手に拵えて磨きあげた信念みたいなものを軸に、ちょくちょく間違えることは「愛嬌だ」と開き直って、前を向いて前進していくしかないやね。
昔、バイト先の先輩に、仏教の教えに深く傾倒している人がいて、その人と一緒に晩飯を食いに行ったことがある。
伊丹の隣、宝塚の某レストランで飯を食っていると、その人が、窓の外ではためいている大きな旗を指差してこう言った。「なあ、和田くん。あれは何が揺れてると思う?」私は素直に答えた。「旗…です」するとその人は「わかってないなあ」とでも言いたげな顔をして、溜め息混じりにこう言った。「あれはね、和田くん。風が揺れているんだよ」
「死ねばいいのに」と思った。
若干グロテスクでさえある、得体の知れない奇怪なデザインの物を、世の中の女子は結構好む。男子からすれば「気持ち悪っ!」としか言い様のない物を手に取って、うっとりとした表情を浮かべつつ、「可愛い」などと言っている。「可愛い」の尺度がさっぱりわからない。
あんな感じが可愛いのなら、私なんて相当に可愛いはずである。メンタル的に極めてグロテスクであり、得体が知れず、奇怪なのだから、相当に可愛いはずなのであるが、どういうわけだか誰も手に取ってくれず、眉をひそめられることはあっても目を細められることはなく、押し黙られることはあっても「可愛い」と言って愛でられることもない。
グロテスクで得体の知れない奇怪なものに「可愛い」という付加価値が付加されなかったら、それはただ、グロテスクで得体の知れない奇怪なものである。
大きなお世話だ。
ほんの少し尖ったことを言っただけでいちいち引くな!と言いたい。
「ぬるい」ということの何がそんなに良いんだろう。
「甘い」ということの何がそんなに良いんだろう。
「丸い」ということの何がそんなに良いんだろう。
ロックが瀕死だ。
辛くないカレーばっかりだ。
流線型の車ばっかりだ。
「出る杭は打たれる」というが、あれは今や死語だ。今は、わざわざ打たなくたっていいんだよ。勝手にめり込んでいくんだから。
ついさっき、テレビで板東玉三郎が言っていた。
「師匠に教えていただきました。「型を覚えなさい」と。「『型破り』というのは、型を知っているから型破りなんであって、型を知らなかったらただの『型なし』なんですよ」と」
じゃ、俺、型なしでいいよ。