幻のセットリスト

出演を見合わせることにした12日のライブは、こんな内容でいくつもりだった。

ここ最近のリハーサルで性急さを増した「口車に乗って」でスタート。間を空けずにザ・フー的なギターリフで始まるパンクナンバー「俺はロックスタア」に突入。この2曲で一気にトップギアまで持っていって、終わったら黙ってチューニング。会場が完全に静まるのを待って新曲「WHY?」。短いMCを挟んで、この日リリースする予定だったアルバム『DABADA TV SHOW 』から「伊丹DABADAで逢いましょう」「グラサージュ」「バタフライ」の3曲を続けてやって、新曲「悪魔と呼んで」でハーモニカを初披露。8曲目にはどこにも毒がない愛嬌の塊のようなラブソング「orange」を持ってきて、毒の塊「MUSIC IS DEAD」で終わる…という流れ。

あのね、俺が観たかったよ。


※出演を見合わせます※

来月12日のイベントへの出演を見合わせることにしました。

新曲を作ったり、アルバムを作ったり、グッズを作ったり、新しく動画を撮ったり…自分なりに色々と準備してきたし、リハーサルも順調に進んでいたけど、状況は良くなるどころか厳しくなる一方で、職業柄、どうにもならず…。

こんな状況にも関わらず、もしくは、こんな状況だからこそ、楽しみにしてくれていた皆さんに心からお詫びを。それから、この決断に理解を示して下さった伊丹DABADAさん、出演者の皆さんには感謝しかないし、本当に申し訳なく思っています。

やる気満々でした。

残念です。

自分は出演できませんが、素晴らしいメンツが揃っています。予定通り、イベントが開催されるよう祈っています。

和田怜士


「WHY?」に添える小さな物語

ポーラはこの世のものとは思えぬほど美しく魅力的な女性だった。

特にこれといった取り柄もなく、言うに言えぬ劣等感を重い影のように引きずりながら生きるウィルにとって、ポーラを愛し続けることの他に「生きる意味」と呼べるものは何もなかった。ポーラはただ、美しく魅力的な女性としてそこにいるだけだったが、そのことがウィルを絶えず救い続けた。

ウィルは想いを胸に秘めたままでいられるような人間ではなかったし、駆け引きというものに嫌悪感すら抱く人間であったから、すべてを「愛している」の一言に託して精一杯、無数に投げ掛けたが、ポーラが微笑を浮かべて返す言葉はいつも「結構です」だった。

ウィルは、数え切れないほどいる恋敵たちの想いが皆、不誠実なものであることを知っていた。言葉巧みであったり、駆け引きに長けていたり、人当たりが良かったりしても、それらが皆、嘘で、ポーラを弄ぶだけのものだということを知っていた。だが、ポーラはそれに気が付かなかった。ウィルの存在は自分を慕い、取り囲む人間のうちの一人に過ぎず、彼の想いや言葉は、たとえそれが真実と言えるものであっても、いとも容易く偽りに埋もれた。

ポーラは誰のものにもなろうとはしなかったが、ウィルの目にはそれが、一人残らず、皆のものになろうとしているようにも映り、その瞬間から、ポーラの輝きに翳りが見え始めた。ウィルの中で、生きる意味そのものであり続けたポーラが堕ちてゆく。

見ていられない。

不意に差し伸べた手。それはこれまでずっとポーラの手にすがりついてきた手で、ポーラの手がすがりつく手ではない。誰か他に手を差し伸べる者は?見渡すが、不誠実な恋敵たちにポーラの堕落に気付く者などいない。

ポーラはウィルが咄嗟に手を差し伸べてきた時、差し伸べてきたことの意味と、他に差し伸べてくれる者が誰もいないことに気付いて、悟るものがあり、自分を諦めた。

哀しみのあまり、涙は流れず、笑顔が浮かんだ。


新PV『WHY?』公開

新曲『WHY?』のPVが完成した。

この曲にはスタジオデモ音源が存在する。海賊ライチのスタッフとみこみかんさんには「配信」という形で聴いてもらったのだが、歌詞付き動画の制作を勧めてくれたのはみこさんである。

皆さんご存知の通り、『WHY?』は歌詞の書き換え/書き加えを頻繁に繰り返してきた曲なのだが、今回、映像を制作するに当たってもう一度入念に歌詞の見直しをし、さらに一部書き換えた。これが最終形である。

ビートルズの曲に「アイ・フィール・ファイン」というのがある…とだけ言っておけば、分かる人は分かるであろうちょっとしたサプライズがある。ビートルズのあれも偶然なら、俺のこれも偶然で、「ビートルズが降りてきた!」と思ってゾッとして、感動したからカットせずに残しておいた。

日本中探しても俺以外にこんな曲を書ける奴はいない。


映像作品について

長らくライブから遠ざかっている。俺の立場、ポジションを思えば、この空白期間は致命的ですらある。とはいえ、焦りは全くない。ないが、忘れ去られても文句が言えないのは確か。

たまに、動画の再生回数をチェックしている。アップしたらアップしたことに満足して後は放ったらかし…というのは絶対に嫌。あれはあれで作品なんだから、ちゃんと管理していく。実際、アップ後にアレンジの変更があったり、映像的に少しでも気に入らない部分が出てきたり、明らかに再生回数の伸びが悪いものについてはその都度削除していて、現在も配信中なのは9本。

俺にも「忘れ去られるかな」という気持ちがないわけではない。でも、変に焦ることなく、曲作りを軸に自分のペースを貫けているのは、動画の再生回数が少しずつ、絶えず伸び続けていて、そこに需要みたいなものを感じ取ることが出来ているからである。

再生回数のチャートアクションも、相変わらず楽しませてもらっている。最近の目玉は「紙吹雪舞う」。もう随分長いことライブで演っていない曲なのに、静かに回数を伸ばして、気付いたら「SURFBLUE」を抜いて2位につけていた。「赤い雨」も最新作にしては健闘していると思う。「雫」が伸び悩んでいるのが少し気になるが、これはまあ、曲が長いから仕方ないかと思っている。「グラサージュ」も苦戦しているが、映像自体は悪くないので、今のところ削除は考えていない。

そろそろ新しいのを撮りたい。


心臓

今日、届いた。販売用ではなく、完全に自分の為に作った。ライブの時はもちろん、普段、例えば通勤時にも身に付ける。

音楽は死んだ。

感じたままを述べたまでの事であり、強烈な皮肉でもあり、愛情の、激烈な裏返しでもある。

左胸。これを身に付けてると、自分らしくいられる気がする。

ただの缶バッジじゃない。

心臓だ。

俺の心臓だ。


聴くの華

音楽のきき方って、「聴く」か「聞く」かの2通りしかない。

ガッツリ耳を傾けて「聴く」のか、それとも、BGMのようにして「聞く」のか。ほとんどの人が後者だと思う。ほとんどの人が聴いているつもりで聞いている。これは、育った環境の問題であったり、長年に渡る習慣の積み重ねであったりして、そうして付いた「聞く」癖はなかなか矯正できるものではない。でも、残念ながら、音楽というのは、「聴く」ことで初めてきこえてくるものであって、「聞く」ことできこえてくるものではない。

日本のライブハウスが欧米のライブハウスのように一般庶民の日常生活に馴染んでこないのは、日本人が「聞く」人種で、ライブハウスが「聴く」場だからだと思う。そして、CDが売れなくなったのは「聴く」人が減ったからで、ネット配信が主流になったのは「聞く」人が増えたからだと思う。

アーティストは二者択一を迫られているのではないか?自分の音楽を「聴く」人と「聞く」人のどちらに投げかけるのかという二者択一。リスナーに対して質より量を求めるのであれば「聞く」人に投げかけるべきだし、量より質を求めるのであれば「聴く」人に投げかけるべき。本当は「質も量も」といきたいところだが、どうやらそれは無理っぽい。というのも、「聴く」人と「聞く」人は水と油の関係だからで、両方を求めるとたちまち二兎追う者は…になってしまうからだ。

さて、俺はどちらに投げかけよう…って、考えるまでもない。これまで通り、ただひたすら、「聴く」人に投げかけていく。「聴く」人には分かってもらえるという自負があるし、既に「聴く」人には分かってもらえていると思っている。

極端に量<質ではあるが(笑)

 


詩人召集、最前線へ

当ブログでは既にお馴染み。友人のシンガー、みこみかんさんの提案を容れて、歌詞カードを作り、各アルバムに封入することにした。

新曲『WHY?』の歌詞に「笑顔で哭いている」というフレーズがある。みこさんは俺が「泣く」ではなく「哭く」としていることに気付いてくれて、「聴き手にとって曲の受け取り方が変わる」と歌詞カードの作成を提案してくれたのである。

説得力のある素晴らしい提案だと思った。俺自身、以前から歌詞カードは作りたかったのだが、作る手段がスマホでは…と断念していた。が、よくよく考えてみたら出来ないことはない。紙質へのこだわりさえ捨てれば、それなりの物が作れる。

よし。作ってみよう。これまでもスマホと百均を駆使して不可能を可能にしてきたではないか。たとえ高級感に乏しくとも、それを補って余りある手作り感で勝負してきたではないか。

詩を読んでもらおう。以前から「厳密に言えば俺の歌詞は「歌詞」ではなく「詩」だ」と口酸っぱく言ってきたが、それをいい加減分かってもらおう。大体、UKロックなメロディーに日本語「詩」が乗ってるというのが俺の音楽の特異性なんだから、詩にもちゃんと光を当ててやらないと。

二つの顔。ロックスタアとしての顔。そして、詩人としての顔。詩人としての顔は今までずっとレコードで言うところのB面に甘んじてきた。いや、もしかしたら表と裏しかないのにC面だったかもしれない。それくらい日陰の存在だった。でも、そろそろこいつを引き上げて、実は両A面なんだよというところを見せていくべきで、そうすれば少しは状況が変わってくるのかもしれない。

過小評価という怪物。俺の中でロックスタアと詩人が手を組めばきっと倒せる。


音楽を歌う音楽家

ふと思い立って数えてみたところ、現在54あるオリジナル曲のうち、音楽を題材にしたものが13曲もあった。少し角度の違うものも含めるともっとある。

音楽を題材にした曲の中で一番多いのが、音楽を女の人に例えてラブソング仕立てにしたもの。人間の女の人に向けたラブソングにはほとんど出てこない「愛」という言葉がよく出てくる。

本格的に作曲を始めた21、2歳の時に書いて、今でもライブのレパートリーにあがることの多い『妄想狂冥利』からして早くも音楽を題材にしたもので、「誰も理解してくれなくても音楽が理解してくれている」という内容だったし、同時期に書いた『クリスティン』という曲も「音楽に生かされている」という内容だった。『モナリザ』『WHY?』は、駄目になっていく音楽を目の当たりにしながら何の手助けもできない歯痒さを歌ったものだし、『伊丹DABADAで逢いましょう』は「音楽なら音楽らしく、求めてくれる人のいる場所へ」と、俺が俺の音楽の為に書いた応援歌。「目覚めた僕の額にト音記号」というフレーズが気に入っている『ここで待つもの』はストレートにメロディーへの信頼を歌ったものだったし、『香しき日々』は音楽が迎えに来てくれるのを待ち続けているという内容。で、今現在の到達点は『MUSIC IS DEAD』。これまでの紆余曲折があってこその「音楽は死んだ」だと思っている。

音楽を歌う音楽家。と言うと、音楽やってるんだから当たり前じゃないのか?と思う人がいるかもしれないが、それは違う。確かに、音楽をやってる人は多い。でも、音楽を歌ってる人はいない。恋愛を歌っている人はいる。人生を歌っている人はいる。政治的な思想を歌っている人もいる。でも、音楽を歌っている人というのは、しかもそれをメインに持ってきている人というのは、世界中探しても滅多にいないと思う。

我ながらユニークな音楽家だと思う。ユニーク過ぎて誰にも理解されない。構わない。音楽が理解してくれてるから。