ティムの爽やか感と、私のサイケデリック感の対比がよろしい。
―photo by tim´s fan
あたしも何か仕事をせねば!というわけで、遅ればせながら簡単な道案内をさせていただきます。
『扇町パラダイス』は、天神橋筋商店街の中にありますが、大々的に看板が出ていたりするわけではないので、始めて来られる方は、店付近まで来ているのに、どれが店なのかわからず、スルーしてしまう可能性が多分にあります。なので、一応、わかりやすい目印をお教えしておきますね。その目印は『ミスタードーナツ』です。商店街の中程にミスタードーナツがありまして、この4軒くらい隣に扇町パラダイスがございます。ミスタードーナツとパラダイスの裏手には、大きな目印として、関西テレビがございます。
開場時間が近づくと、パラダイスの前、商店街の通路に、出演アーティストの名前が書かれた小さな看板が立てられるので、これを見つけていただければ宜しいかと思います。とにかく、万が一道に迷われたら、ミスタードーナツまでお越しください。よろしくです!
いよいよ明日。
体調万全。ヤル気満々。6年振りの復活に死角なし。
夢のようだ。バンドでまたステージに立てるなんて!
俺、腹の底から声出すんで、皆さんも思いっきり声出してくださいよっ。「イエーーーーッ!!」でお願いしますよっ。
お互い、死ぬほど美味い酒を呑みましょう。
天国で逢いましょう!
特に何の思い入れもない数字。どちらかと言うと嫌いな数字―と、書こうとして思いとどまった。
私がこの数字に思い入れを持たなくてどうする。この数字を嫌ってどうする。なんとなれば、私は生まれてこの方、「一憩」なのだから。
一憩―この変な名前は、私の変な親父が、「一休」を変形させたものである。うちの親父は、我が息子の名前の中に何としても「やすむ」という意味合いの言葉を入れたかったらしい。「のんびり生きていけ」と。で、まず「一休」が浮かんで、これを変形させたのが「一憩」。ということはつまり、「一」は「一休」の名残りで、「一」という字自体に、意味的なものは特にないのである。
ところで私は、「一」はさておき、「憩」という字を非常に気に入っている。「自分の舌に心」と書くからだ。喋るにしろ、歌うにしろ、言葉というものを軽率に扱わない人間の名前という感じがする。下手をすれば、言葉の魔術師にだってなれそうな気配がある。しかしながら、「憩」という字の中にある「心」は、書道の世界では「下心」というらしく、そういえば、言われてみれば、私は生まれつき嘘つきだ。嘘の魔術師だ。
アカンやん。
何事に於いても「二番煎じ」と言われるのは絶対に嫌だけれども、「二番煎じ」という言葉がマイナスの意味合いでしか使われないということがよくわからない。だって、茶は絶対、二回目に出した時が一番美味い。二番煎じが一番美味い。一回目は味が浅いし、三回目は味が薄い。実際、高級料亭では、一回目は捨てて、二回目を客に出すと聞く。一回目で葉を開かせて、二回目を飲むというのが、本来の茶の飲み方らしいのである。
先駆者が道を拓く。未開の地を開拓する。そして、その次に来た奴がこれを発展させていく。この、次に来た奴のことを「二番煎じ」などと呼んで馬鹿にしちゃイカンだろう。むしろ「二番煎じ」と呼んで、讃えるべきなのではなかろうか。
特に何の理由も根拠もないのに、テキトーにめぼしいのを見つけて、その人をのけ者にして、その人の頭の上に立って、我の身の安泰を図っているような人間は最低だ。下品の極みだ。
あの人たちは一体何なんだろう。なぜあんなに下品なんだろう。一人一人見れば、決して悪いひとたちではないのに、群れると何故、あんなに卑劣なことを平然とやるようになってしまうんだろう。明らかに寂しそうな顔をしている人の隣で、何故、来る日も来る日もゲラゲラゲラゲラ笑っていられるんだろう。
この文章に於ける「のけ者」は、私のことではない。私は、肌で感じている。目の当たりにしている。肌に、目に、痛い。
私は、あの悪いひとたちのことを、そして、その悪いひとたちにのけ者にされている人の存在に全く気付いていない、もしくは、気付いていないフリをしている奴のことを、絶対に許せない。
「何か」が必ず、どこかで、一部始終を見ている。悪いひとたちはそのうち必ず、痛い目にあう。