次の次まで見えないと動けない人というのは、そのうち必ず「次の次の次まで見えないと動かない」みたいなことを偉そうに言い出すに決まっているので、結局はいつまで経っても動かないのである。
私は、次の次が見えなくても、次が見えたら即、動こうと思っている。次に対して動いたら、その瞬間から、次の次が変わってくるからである。
次の次まで見えないと動けない人というのは、そのうち必ず「次の次の次まで見えないと動かない」みたいなことを偉そうに言い出すに決まっているので、結局はいつまで経っても動かないのである。
私は、次の次が見えなくても、次が見えたら即、動こうと思っている。次に対して動いたら、その瞬間から、次の次が変わってくるからである。
そういえば昨日、バンドで写真を撮ることになった際、剣吾くんが「一憩くんまた椅子に座ったら?」と言ったので、私が「椅子はもうええわ。おじいちゃんみたいやし」と答えたら、剣吾くんのスマホを手にしたなっちゃんが「哲学家みたいでいいと思いますよ」と言ったのを、私は聞き逃さなかったのである。
私がスタジオのスタッフ、なっちゃんと喋るのは、メンバーが勢ぞろいして練習が始まるまでのほんの数分である。そんな短時間でそんなイメージを持たれるはずがない。ということはつまり、このブログを読んでくれてはるんかなとも思ったがしかし、それにしたって、早過ぎる。なにしろ、「芸術家」ではなく「哲学家」だ。このクソ堅苦しいイメージをあっという間に持たれてしまっているというのは、もしそれが事実であれば、痛い。先が思いやられる。絶対に出世できない。
「哲学家」という言葉からイメージする人間というのは要するに「難しい人」だろう。私は難しい人だと思われているのか?ちっとも知らなかった。そりゃモテないはずだ。これはイカン。何とかせねばならん。
B’zを聴きながら村上春樹を読んで、ホワイトロリータをつまみながら甘い紅茶を飲まねばならん。レノンを聴きながら太宰治を読んで、柿ピーの柿のみを選ってつまみながらビールを飲んでおる場合ではない。
私には「成長」という言葉がピンと来ない。
深化することはあっても、進化することはないように思うし、それより何より深化より、「変化」という言葉が一番ピンと来る。ただただ変化を繰り返す生き物―それが私。
「老化」とか「退化」とか「老朽化」といった言葉も、「成長」や「進化」同様、私にはどうもピンと来ない。
色が変わるというのは、横の変化であって、縦の変化ではない。
このブログもあと4本で1000本に到達するし、私自身、今月のド真ん中―15日には、本来あるべき自分の姿に約6年振りに回帰して、その姿で、今月末には35回目の誕生日を迎えるし。何かしら一歩を踏み出して、状況をガラリと変えるのなら、このタイミングだろうと思っている。まさに、そういう「流れ」だろうと思っている。
今月中に、解決、解消すべきものは今月中に潔く解決、解消して、来月以降の人生をさらにキラキラギラギラしたものにしていきたい。
心理学の本にあるところによれば、人間は、持って生まれた防衛本能として、新たな一歩を踏み出す際には必ず、ネガティブなイメージを浮かべるようにできているらしいが、それはあくまでイメージであって、実際ではないんだから、そんなものに縛られておっては、端から見ていてドキドキするような、キラキラギラギラした人生など、創造できるわけがない。
だから、とりあえずは、明らかに私の中でストレスの根源―暴飲の根源となっているものを今月中に、潔く取り除くことから始めようと思っている。これ以上の忍耐は無駄だと判断した。
忍耐が日本人の美徳だと言うのなら、私はなにも、無理に、日本人でなくとも良い。
合言葉は「MORE」―私は、もっとあるはずだ、もっとあるはずだと言って生きていく。人生、一回きりなんだから。
『Tommy february6』と『Tommy heavenly6』―要するに川瀬智子=トミーさんを象徴する数字であって、私がロト6を購入する際には、絶対に外せない数字である。
ちなみに何故『Tommy february6』という名前なのかというと、トミーさんの誕生日が2月の6日だからで、ということはつまり、トミーさんの37回目の誕生日が来月に迫っているということなのである。
ところで、私はバンドのリハーサルで大阪に出るたびに、ひとつの試みをしている。
梅田の駅から泉の広場を抜けてスタジオへ向かうまでの道中、大勢の女性とすれ違うが、彼女たちを出来る限りちゃんと見ていった場合に、私はその内の何人に対して「本当に綺麗だ」もしくは「本当に可愛い」と思うのか―ということを試しているのである。自分の女性に対する美的感覚が絞られてきているのか、それとも、相変わらず散漫なのかを自分自身で把握したいがための試みである。
これがやってみると実に意外な結果が出て驚いた。昨日は、なんと、ゼロであった。どうやら自分の中に、視覚的に魅力的だと思う女性の具体的な理想形が出来上がっているらしく、この形に該当する人を昨日は一人も見掛けなかったのである。
私の中の理想形―前々回の試みに於いて、わずかに一人だけではあるが、私は見掛けたのである。私の目がまさに「釘付け」となった瞬間であって、私自身が、私の中の理想形を把握した瞬間であった。果たしてそれはどのような女性であったか―このような女性であった。決して派手ではなく、細身で、実際の身長よりも若干高く見え、小顔で、肌が透き通るように白く、グリーンのベレー帽を斜めに被り、白いマフラーを巻いて、数冊の本を両手で抱きしめており、鼈甲色の細目の眼鏡を掛けていた。
師走の、人混みでごった返す広い地下通路の片隅を、壁に沿うようにしてゆっくり、うつむき加減に歩いている感じを含めて、完璧であった。