歩く大阪王

要するに私は、自分の輪郭みたいなものを、はっきりさせたいと思っているわけです。

自分を食いもん屋に例えるならば、洋食屋なら洋食屋。和食屋なら和食屋。中華屋なら中華屋―「うちはこれやってます。これで勝負しております。これ以外はやっておりません」という看板をバアーンと掲げて、それを食いに来た人にそれを出したい。ファミレスみたいに、洋食も和食も中華も出すけど、どれもこれも中途半端というのは絶対に嫌だ。

わかるものはわかる。
わからないものはわからない。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。

阪急伊丹駅の近くに『大阪王』という餃子専門店がある。ここはまさに「餃子専門店」で、昔から餃子とビールしか置いておらず、注文も二人前からしか受け付けていない(私は昔、この店に入ってきた客がビールと餃子を一人前だけ注文して、店長に断られているのを見たことがある)。
店は商店街の角にあり、店内は狭く、8人も入れば満員なのだが、それでもこの店は、伊丹の名店だと言われ続けている。

言うなれば、私は、あんな人間になりたいと思っている。他人は私に、炒飯やラーメンも出せと言うし、餃子も一人前から出せと言うし、店をもう少し広くしろと言うが、もし、大阪王が炒飯やラーメンを出すようになり、餃子を一人前から出すようになり、店がちょっと広くなったら、私は二度と、大阪王へは行かなくなるだろうと思う。

間口を広くとって、味を曖昧にしたくない。


でも、だから

でも、だから、尖った文章も必要だと考えます。

世の中の全ての人間が、薬を求めてると思ったら大間違いだ。毒を求めてる奴らだっていっぱいいるよ。

子供の頃の私を救ってくれたのは、私の夢となってくれたのは、ビートたけしの毒舌(今とは比べ物にならないくらい過激だった)でした。そして、FRIDAY襲撃事件だったりもしました。あの時、私は「この人なら信じられる」と思いました。

それから、ある程度物心がついて気付いたのは、私が本当に好きなのは、救われるのは、ビートたけしを含めた意味での『毒』で、ロックという音楽であり姿勢で、それが今に至るまでずっと続いてるわけです。

私自身が、薬よりも毒に救われてきた。薬の中にある愛よりも、毒の中にある愛に救われてきた。

私は、キング牧師よりも、マルコムXの方がずっと「嬉しい」と思うし、ましてや、ガンジーなんて大嫌いです。「非抵抗主義?ふざけるな!」です。

ナメられたくない。もう絶対ナメられたくない。だから、撒き散らしますよ。私なりの毒を、色んな表現方法で撒き散らします。

これはこれで喜んでくれる人が、絶対、少なからず、いるはずなんだと信じています。

追記)今日、某音楽番組を観ていました。あまりに幼稚で、「学芸会か!」と思いました。どいつもこいつも平和ボケ丸出しの歌をヘラヘラヘラヘラ笑って歌って踊っておりました。どこにも毒はありませんでした。私は、「この国は腐ってる」としか思えませんでした。


コメントへの返信〜モノノケ様宛

私の文章の何倍も、モノノケさんの視点はシュールです。だって、『IKKEI’S』や『子供電話相談室』といった文章にさえ、深い意味を見出だそうとするんですから(笑)

『IKKEI’S』はただ、言葉を徹底的に破壊し尽くしてみようと思って書いただけ(タイトルは北野武監督のめちゃくちゃシュールな映画『TAKESHI’S』から拝借しました)ですし、『子供電話相談室』に至っては、仕事中、ああでもないこうでもないと考え事をしていたら、途中でめんどくさくなっちゃって、考え事をして重くなった脳ミソをドーン!とひっくり返した拍子に閃いた馬鹿話を書いただけなんですから。

たまには単純に笑ってくださいね。ま、笑えればの話ですがね。ちなみに、私のオススメは『IKKEI’S』中盤のチャック・ウィルソンのセリフです。我ながら、何度読み返しても笑ってしまいます。本当に、何を言ってるんだかさっぱりわかりませんから。
「わからない」でいいんですよ。「意味がない」ということの解放感を楽しんじゃってください。

私が書く文章の7割は無意味です。あとの3割は独り言と下ネタです。


一憩の子供電話相談室

Q デューク更家は外人ですか?

A 虫です。

Q デューク更家っていう虫は一体何ですか?

A デューク更家っていう虫は、デューク更家っていう虫です。

Q デューク更家は何DKですか?

A 家やない。虫。

Q デューク更家は何DKの虫ですか?

A 自分が何言うてるかわかってるか?

Q デューク更家は無視した方がいいですか?

A 無視ちゃう。虫や。

Q デューク更家は無視したら駄目な虫ですか?

A うるさい。とにかく虫や。

Q デューク更家は何皿目から無料ですか。

A 皿やない。虫や。

Q デューク更家は何GKですか?

A ゴールキーパーやない。虫や。

Q デューク更家は気違いですか?

A お前がな。

Q デューク更家は僕ですか?

A お前、頭大丈夫か?

Q デューク更家と松崎しげるは同じですか?

A 観点がわからん。

Q デューク更家と僕は同い年です。

A お前オッサンかい!


言い訳無用

私が、「俺ももうオッサンやし」とか、「私ももうエエ歳やし」とかいう言葉が大嫌いなのは、皆さんもよくご存知のことだと思う。

でも本当は、私ほど「時間がない」って思ってる人間もいないと思う。

接する人間接する人間「俺ももう…」とか「私ももう…」とか言っている。言っておきながら、何故かちっとも焦っていない。危機感がない。
思考が、言葉が、行動がいちいち消極的で悠長で…言ってることとやってることが…本当に腹が立つよ。


手に入れるため 失わないため

私が何らかの結果を出せた時というのは、私が積極的な時だった。

私の中で、失敗が成功の母となったのはいつも、私が積極的な時だった。

消極的だった時、私はなんら結果を出せなかった。

私の中で、失敗がただの失敗で終わったのはいつも、私が消極的な時だった。

もしかしたら、消極的であるにも関わらず、運良く何かを手に入れるということも、たまにはあるのかもしれないが、そういうものは遅かれ早かれ、いずれ必ず紛失してしまう。

消極的な姿勢で手に入れたものは、消極的な持ち方をするから、必ずどこかで手放してしまう。

積極的に手に入れて、積極的に握りしめないと、何も手元に残らない。


IKKEI’S

私のヴィジョン。

頭の中に「現状維持」の看板がある。でも、な〜んかおかしいぞ…と思っていた。もっと近くからよく見てみようと思って、手を伸ばしたら、看板がクルッと回転して、裏に「と、見せかけて攻め」と書いてあった。

「アホかっ!」叫んだ瞬間、背後に人の気配がして振り返ると、私の中の電信柱の陰から私の中の平松邦夫がサングラス越しにこちらをじっとみつめていた。

シバき倒そうと思い、周囲にバールのようなものが落ちていないか探してみたところ、生憎周囲にはバールのようなものしか落ちておらず、素手で殴りかかったら、邦夫の後ろに邦夫がおり、その邦夫の後ろに邦夫がおり、私の中の地平線の果てまで邦夫、邦夫、邦夫。急ぎ、私の中の日本野鳥の会に連絡して、鳩山邦夫の数を数えてみてもらったところ、「5万匹いることにしてください」と言う。
「5万」という数にピンときた私は直ちに私の中のチャック・ウィルソン5万匹に援軍を要請。今、チャック5万匹と邦夫5万匹が、私の中の長江を挟んで対峙している。

「私の強さは私自身が恐れるほど強いということの弱さは強い」とチャック5万匹が豪語する一方で、城之内邦夫5万匹は「あの外人も私の前では外人だ」と言って一歩も引かない。ところが私は、この戦争に興味がない。私には一切関係のないことなので、興味を抱けない。だいたい私は、戦争に対して常に断固たる反対の姿勢を貫いてきたと言っても過言。
「アカンやんか!」叫んだ私は、デューク更家という奇怪な歩き方をする気持ちの悪い虫を連れて、散歩に出掛けることにした。そして、僅か5歩で「疲れた」と漏らしたデュークをブチ殺したら、どこからともなく4万9999匹のデューク・エリントンが現れて私を包囲したようなしなかったような。「邪魔やからどいて」と言ったら、「あ、すいません」と言って素直に道を開けてくれたから嬉しくて舌打ちが止まらなかった―食は万里を超える。

このへんで許してください。


私もたまにはいいこと言いたい

散々考えた挙げ句の決断が失敗に終わることもあるし、ビビっときた直感に従って下した決断が失敗に終わることもあるけど、テキトーに下した決断でさえなければ、失敗は常に教科書のようなものであって、決して不毛なものではないねぇ。

失敗は成功の母―古人もたまにはいいこと言う。

失敗して、何がいけなかったのかを考えた場合に、即座に、次どうすれば良いのかが閃く時がございます。また、失敗する直前に、失敗の匂いを嗅ぎ付けて、失敗の向こう側の成功が、失敗する前の段階で、手に取るようにわかる時もございます。そんな時、失敗することが成功への最短距離だという見通しで、好き好んで失敗することも、私には、ございます。成功と自分との間に落とし穴があることを知っていて、あえて前進、ドスンと落ちて、そっから這い上がって成功に手を掛ける―という不器用極まるやり方を選ぶことが、私には、たまに、ごくごくたまに、あるみたいです。

虎穴に入らずんば虎児を得ず―古人もたまにはいいこと言う。


黙念

目線が上を向いている間は考える。大いに考える。

目線が下を向きだしたら、一切の思考を停止する。

浮き沈みの頻度と幅を出来る限り縮小して、自分の中に、ブレない線を作りたい。

喜ぶ時は喜ぶ。

怒る時は怒る。

哀しむ時は哀しむ。

楽しむ時は楽しむ。

単純なことが一番難しくて、できないのに、できないままに、単純なことができないままに飛躍して、複雑な方向に思考を進めたら、そりゃもう、堕ちていくしかなくなると思う。

思考が堕ちだしたら、思考をやめる。

私は、思考が堕ちだしたら、思考をやめる。

これを徹底して、誰よりも幸せになりたい。