知性の表れ方

〈男の場合〉男の知性を見抜く鍵は「プライド」でございます。ありとあらゆることについていちいち些細なプライドを持ち、これを執拗に押し出してくる男に知性はございません。オカマです。下等動物です。したがって、知性を前面に押し出してくる男にも、知性はございません。知性を前面に押し出すというのは、プライドを前面に押し出しているということに他なりません。馬鹿を演じられる男、もっと言えば、演じ切れる男にこそ知性はございます。お笑い芸人がめちゃくちゃ知的に見えるのは、こういった理由からだと思われます。

〈女の場合〉女の知性を見抜く鍵は「笑い」でございましょう。女という生き物は、基本的に、面白くありません。女は男ほど、社会生活を営む上で、笑いのセンスを必要としませんから、センスがないということにそもそも危機感がなく、センスを磨くということにもほとんど必要性を感じていないようです。にも関わらず、たまに、ごくごくたまに、めちゃくちゃ面白い女がいます。これはもう、はっきり言って、知性の塊に見えます。頭の回転の速さを感じます。女が、笑いのセンスを持っていて、また、それを遺憾なく発揮している姿というのは、美しいです。笑いでプライドを覆い隠そうとしているところに、品あるプライドを感じます。私は、笑いというものは、女性にとって、美しさの対極にあるものではなく、美しさを加速させるものであると考えます。

〈結論〉要するに、知性を感じさせる人間というのは、男女を問わず、極めて稀だということです。ほとんど馬鹿です。特に、ロックンロールバンドで歌うたっちゃってるような奴は。


コメントへの返信〜須磨ですまんの〜様宛

そういえば、須磨ですまんの〜さんは伊丹空港フェチやったね。

飛行機ってカッコええやん!びっくりした。
飛んでいくやつが離陸する時も、帰ってきたやつが着陸する時もカッコええけど、俺が一番カッコええと思ったのは、滑走路の端の方でゆっくりUターンして飛び立つ準備してるやつ。あ〜れはカッコええね。あのカッコ良さはもう、ただの鉄の塊やないね。鉄の塊やなくて…いや、やっぱり鉄の塊やわ。

あと、あれや、滑走路長いね〜。滑走路もっすごい長いわ〜。長いわ〜滑走路。いや〜ホンマ長いわ滑走路。ちょっと心臓弱いおじいちゃんに走らせたら確実に死ぬと思うわ。でも、実際に走らせてみたらおじいちゃん、まさかの離陸、素の表情で階段を駆け上がるようにして飛んでいったりしてね。あの世へ。


ござんす口調で自画自賛

私のブログは日記ではない。「作品」である―ということは、これまでにも繰り返し述べてきたことであるが、我ながら、本当に面白いと思う。このブログ。

あっちゃ行ったりこっちゃ来たり、浮いたり沈んだり、もの凄いことになっていると思う。

わざわざ本なんて読まなくても結構でござんす。このブログを愛読してりゃ、それでようござんす。


デート〜伊丹スカイパーク〜

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今日はデート。彼女の運転するピンク色の車で、オアシスを聴きながら、伊丹空港の隣にある『伊丹スカイパーク』に行ってきた。

私は、飛行機よりもむしろ、滑走路の長さに目を奪われた。滑走路が、長かった。

「この滑走路の端から端まで餃子並べたら壮観やろな」って言ったら、「たぶん見えへんと思う」って言われた。でも、それから数分後、「何人前になるんやろ…」と呟いたのは、私ではなく彼女の方であった。

気付けば、私も彼女も、飛行機のことを「ししゃも」と呼んでいた。


詩『傍観』

私の中に宇宙はございません

身長172cm

体重59.4kg

こんなちっぽけな器に収まる宇宙はございません

私の中にはただ

街がございます

庶民的であるということ以外には何の特徴もない

こぢんまりとした街がございます

大小様々な建築物が

所狭しと立ち並んでおりまして

日々

破壊と構築を繰り返しておりますが

私は今まで

この街に於いて

破壊のない構築を見たことがございません

構築のない破壊なら

何度か見たことがございますが…

だいたいこの街は

平和なのか平和ではないのか

定かではございません

常に地震に見舞われております

ずっとちょっと揺れております

にも関わらず

庶民的でございます

私は

この街のことを

知りません

「知っている」と言えるほどには知りません

ただこれが街であって

宇宙ではないということだけは確かです

私の中に宇宙はございません


めっちゃ努力してます

言いたいことを言わないと道が拓けない。
言いたいことを言わない忍耐が続くと、自分の中で着実に腐敗していくものがあって、遅かれ早かれ爆発、自滅してしまう。

言いたいことを言った後に、自己嫌悪的なものが残ることがあるが、これは、嬉々として受け止めるべきだ。それは、道が拓けていくということの感覚だ。言いたいことを言った後に、言いたいことを言ったことによって、逆風が吹くこともあります。でも、これもやはり、道が拓けていくということの感覚だ。

何かが生まれようとしている時に、陣痛が伴うのは至極当然なことだ。

ほら、よく言うでしょ?「女」の「又」に「力」と書いて努力の「努」

言いたいことを言う―私にとってこれほど努力を要するものはない。っていうか、まさに、努力そのものだ。でも、この努力によって、確実に道は拓けていくし、この努力によってしか、道は拓けていかないんだから、日々努力。努力。努力。


長文『開眼、もしくは覚醒』

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(1)小3の時、担任の先生が私の母親にこっそりこう言ったらしいのである。「一憩くんは感覚が他の子と違います。何か物を作らせると、それがよくわかります」私は後日、母親からこの話を聞いた時、子供心に、自分の未来がグワッと開けたような気がして嬉しかった。そして、小4の時の担任(以前、何度かブログ上で紹介した伝説の超絶美人教師原田先生のこと)は、私のそういった感覚に即座に気付いたらしく、私に「自分の持っているものに気付きなさい」と自覚を促しながら、私の個性をさらに伸ばそう伸ばそうとしてくれた。それはまるで、一年間付きっきりで「個性的であることは素敵なことですよ」と囁き掛け続けてくれているかのような素晴らしい教育姿勢であって、私は今だに、あの先生に出逢えたことを奇跡的なことだと思って、言葉では言い表せないほどに感謝している。

(2)今にして思えば、私は本当に奇妙なガキであった。考え方が、他の子供らとかぶることがまずなかった。
私は、本当の答え―本当に魅力的な答えはいつも、皆が口を揃えて言っていることの中にはないと思っていた。皆がいる場所とは別の場所に、面白いものが転がっていると信じ切っていた。

(3)中学、高校と進むにつれて、私は自分の感覚を隠すようになっていった。小学生の頃よりも、派手に馬鹿をするようにはなったが、その一方で、頭の中にあるものについては、表に出さないようになった。
「何を語っとんねん」と言われることが嫌だった。私は「語り合う」ということがしたかったのだが、誰も語り合いたがらなかった。私には、いわゆる「反抗期」はなかったのだが、同級生の奴らに対する怒りは半端なものではなかった。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだと思っていた。怒りで手が震えていた。

(4)高校3年の時、私は進路指導の男の先生にあるお願いをした。週に一度、日頃思っていることをノートに書いてくるから、読んでもらいたいと願い出たのである。先生は喜んで引き受けてくれ、週に一度、私の書いてきたものを読み、そこに赤ペンでコメントを添えてくれた。そして、高校卒業が迫ったある日、その先生が私を呼び出してこう言ったのである。「君みたいな生徒が、自分の思ってることを言われへん、こういう形でしか言われへん学校教育って一体何なんやろな…。先生もそのへんのこと、ちゃんと考えてみるわな」嬉しかった。良い先生だと思った。

(5)高校を卒業して社会に出ると、なお一層、自分の「個」を表現しづらくなった。でも、自分の中には相変わらず強烈な主張があり、外に出よう出ようとするので、これを音楽や文章で表現してきた。が、日常生活に於いては、私は自分の個を圧し殺して、他人の主張を尊重する方向で生きてきた。そして、このやり方に限界がきたのが、昨年のことであった(何があったのかはもうあえて語らんが)。

(6)で、今、この長ったらしい文章の結論として、私が何を言いたいのかというと、「小学生の頃の自分に戻ってやろう」と思っているということなのである。他人にどう思われようが知ったこっちゃない。他人は意外と馬鹿だ。たまに私より馬鹿だ。そんな奴らに気を使って生きることの無駄に気付いたのである。
自分の、本来誰ともかぶらない考え方、感覚を解放して、再び前面に押し出して生きてやろうと思っている。
誰にも理解されないかもしれない100%和田一憩な感覚に基づいて、言いたいことを言い、やりたいことをやってやろうと思っている。

(7)他人の考え方、不特定多数の人間の考え方なんて、わざわざ詮索するまでもなく読めてしまう。私が、「こう言うんだろうな」と思ったことを言い、「こうするんだろうな」と思ったことをしている。めちゃくちゃくだらない。私には関係のない人たちだ。

(8)開眼、もしくは覚醒。今後、私は、果てしなく私だ。

〈写真右〉私が中学に上がる際、原田先生から送られてきた年賀状。私の宝物。
〈写真左〉進路指導の先生に提出していた『こらむのをと』。全7章から成っており、それぞれの章のタイトルは次のようになっている。
・流行りものと日本人―くたばれ日本人―
・左翼 和田一憩
・非現実的思想主義者 和田一憩
・何故こんなコラムノートにしたのか
・哲学?
・和田一憩、団塊の世代に責任課す
・女―和田一憩流解釈―