長文『開眼、もしくは覚醒』

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(1)小3の時、担任の先生が私の母親にこっそりこう言ったらしいのである。「一憩くんは感覚が他の子と違います。何か物を作らせると、それがよくわかります」私は後日、母親からこの話を聞いた時、子供心に、自分の未来がグワッと開けたような気がして嬉しかった。そして、小4の時の担任(以前、何度かブログ上で紹介した伝説の超絶美人教師原田先生のこと)は、私のそういった感覚に即座に気付いたらしく、私に「自分の持っているものに気付きなさい」と自覚を促しながら、私の個性をさらに伸ばそう伸ばそうとしてくれた。それはまるで、一年間付きっきりで「個性的であることは素敵なことですよ」と囁き掛け続けてくれているかのような素晴らしい教育姿勢であって、私は今だに、あの先生に出逢えたことを奇跡的なことだと思って、言葉では言い表せないほどに感謝している。

(2)今にして思えば、私は本当に奇妙なガキであった。考え方が、他の子供らとかぶることがまずなかった。
私は、本当の答え―本当に魅力的な答えはいつも、皆が口を揃えて言っていることの中にはないと思っていた。皆がいる場所とは別の場所に、面白いものが転がっていると信じ切っていた。

(3)中学、高校と進むにつれて、私は自分の感覚を隠すようになっていった。小学生の頃よりも、派手に馬鹿をするようにはなったが、その一方で、頭の中にあるものについては、表に出さないようになった。
「何を語っとんねん」と言われることが嫌だった。私は「語り合う」ということがしたかったのだが、誰も語り合いたがらなかった。私には、いわゆる「反抗期」はなかったのだが、同級生の奴らに対する怒りは半端なものではなかった。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだと思っていた。怒りで手が震えていた。

(4)高校3年の時、私は進路指導の男の先生にあるお願いをした。週に一度、日頃思っていることをノートに書いてくるから、読んでもらいたいと願い出たのである。先生は喜んで引き受けてくれ、週に一度、私の書いてきたものを読み、そこに赤ペンでコメントを添えてくれた。そして、高校卒業が迫ったある日、その先生が私を呼び出してこう言ったのである。「君みたいな生徒が、自分の思ってることを言われへん、こういう形でしか言われへん学校教育って一体何なんやろな…。先生もそのへんのこと、ちゃんと考えてみるわな」嬉しかった。良い先生だと思った。

(5)高校を卒業して社会に出ると、なお一層、自分の「個」を表現しづらくなった。でも、自分の中には相変わらず強烈な主張があり、外に出よう出ようとするので、これを音楽や文章で表現してきた。が、日常生活に於いては、私は自分の個を圧し殺して、他人の主張を尊重する方向で生きてきた。そして、このやり方に限界がきたのが、昨年のことであった(何があったのかはもうあえて語らんが)。

(6)で、今、この長ったらしい文章の結論として、私が何を言いたいのかというと、「小学生の頃の自分に戻ってやろう」と思っているということなのである。他人にどう思われようが知ったこっちゃない。他人は意外と馬鹿だ。たまに私より馬鹿だ。そんな奴らに気を使って生きることの無駄に気付いたのである。
自分の、本来誰ともかぶらない考え方、感覚を解放して、再び前面に押し出して生きてやろうと思っている。
誰にも理解されないかもしれない100%和田一憩な感覚に基づいて、言いたいことを言い、やりたいことをやってやろうと思っている。

(7)他人の考え方、不特定多数の人間の考え方なんて、わざわざ詮索するまでもなく読めてしまう。私が、「こう言うんだろうな」と思ったことを言い、「こうするんだろうな」と思ったことをしている。めちゃくちゃくだらない。私には関係のない人たちだ。

(8)開眼、もしくは覚醒。今後、私は、果てしなく私だ。

〈写真右〉私が中学に上がる際、原田先生から送られてきた年賀状。私の宝物。
〈写真左〉進路指導の先生に提出していた『こらむのをと』。全7章から成っており、それぞれの章のタイトルは次のようになっている。
・流行りものと日本人―くたばれ日本人―
・左翼 和田一憩
・非現実的思想主義者 和田一憩
・何故こんなコラムノートにしたのか
・哲学?
・和田一憩、団塊の世代に責任課す
・女―和田一憩流解釈―


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