Fragile

子供の頃、外で遊んでいて、膝などを擦りむいて家に帰ったら、母親が、「おっ、男の勲章やな!」と言って笑った。

人生、たった一度きりだから、「こわれもの」として取り扱うのか、それとも、たった一度きりだからこそ、一つでも多くの「勲章」を求めて、悪戦苦闘、獅子奮迅、戦い続けるのか。
もし、人生を「こわれもの」として、慎重に慎重に取り扱ったとして、限りなく無傷に近い状態で寿命を全うすることに成功したとして、その無傷の人生とやらに、一体何の価値があるのだろうか。
あの世で、神様が、中古CD屋の店員のような恰好でもしていて、その綺麗な人生を、高価買取でもしてくれるのだろうか。でも、その場合の、「価」って一体なんなんだろう。高価で買い取ってもらえたら、どんな特典があるんだろう。ひょっとして、もう一度、霊長類の頂点に立つ生き物として生まれ変われるとか?でも、それは、罰ゲームではないのか?

私は、最近、人生ってのは、物語だなあと思っている。
この世に生を受ける直前、神様が一冊の、何も書かれていない真っ白な本を我々人間に手渡して、こう言う。「ここにあなたの人生を、物語を書いてきてください。そうして、書き終えたら、またここへ戻って来て、私にその本を返し、私にあなたの人生を、物語を読ませてください。喜劇にせよ、悲劇にせよ、面白いものを期待していますよ。」

「こわれもの」として取り扱われた人生、物語よりも、傷だらけの、「勲章」だらけの人生、物語の方が、本の虫の神様は、喜ぶのではないだろうか。でも、あんまり良くできた、面白過ぎる本にしてしまうと、「続編をよろしく!」などと言って、またまた霊長類の頂点に立たされる危険性があるから、あえて、所々に誤字脱字を書いておくしたたかさもまた、我々人間には必要なのではないだろうか。
この本の、誤字脱字の必要性を思えば、人生のちょっとした失敗や後悔もまた、必要なものとして、受け容れられるような気がしないでもないさね。


『女の決闘』より/太宰治

人は、念々と動く心の像すべてを真実と見做してはいけません。自分のものでも無い、或る卑しい想念を、自分の生まれつきの本性の如く誤って思い込み、悶々している気弱い人が、ずいぶん多い様子であります。
時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮かんでは消え、浮かんでは消えて、そうして人は生きています。
その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは、間違いなのであります。真実は、常に一つではありませんか。他は、すべて信じなくていいのです。忘れていていいのです。


照れ隠せ!

「笑い。これは、強い。文化の果ての、花火である。理想も、思索も、数字も、一切の教養の極地は、所詮、抱腹絶倒の大笑いに終わる。」
これは、『人間失格』のイメージしか無い人には信じ難いかもしれないが、太宰治の言葉である。彼は、太宰治という男は、「笑い」というものに、とてもうるさい男だったのである。

真の笑いというのは、心の闇や、苦悩、煩悶や、涙から出てくるものだと思う。だから、口癖が、「前向きに!」だったりする、思慮浅い、常にニヤニヤしている、無闇に声のデカイ、ポジティブ思考満開愚鈍野郎には、絶対に、笑いはわからないと思う。

理解らないと思う。

ポジティブ思考満開愚鈍野郎を笑わせるには、「プー」で十分だ。屁音で十分だ。ストレートが有効だ。気を利かせてちょっとでも変化球を投げようものなら、はにゃあ?みたいな顔をして見送られるのがオチだから、屁で、「プー」で十分だ。
あと、常に眉間に皺を寄せているような、まるでその皺を誇示して歩いているような、シリアス野郎にも、笑いはわからないと思う。シリアスであることを良しとしている人間には、笑いはわからないと思う。笑いは、シリアスな自分を隠そうとした時に出てくるものだと思う。極端に言えば、「照れ隠し」が、笑いの源泉だと思う。

ポジティブな思考を全面的に支持するつもりは、毛頭ない。同時に、ネガティブな思考を全面的に否定するつもりも、毛頭ない。ただ、「照れ隠し」しようとするところの『品』に於いて、私は、人を見る。
人間、やっぱり品の問題だ。品のある奴は面白いんだ、本当に。いつも、腹の底から笑わせてくれるよ。


タルチョ

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サイコロ型の箱に入った、500ml入り麦焼酎で、名前を『タルチョ』といいます。関西スーパー価格で、580円です。先日、僅かながら、臨時収入があったので、思い切って買ってみました。
しかしまあ、何て可愛いらしいんだろう。

これに『タルチョ』と命名した人と、箱を、あえてこういうデザインにした人に逢って、是非とも酒を(勿論、タルチョですが。)、酌み交わしてみてみたいものです。
しかしまあ、何て可愛いらしいんだろう。

この酒は麒麟のものですが、麒麟もなかなかやりよるなあと思います。私は、元来、根っからのサッポロ派ですが、このタルチョに限って言うと、麒麟もなかなかやりよるなあと思います。
しかしまあ、何て可愛いらしいんだろう。


猛毒

たまに、男が皆、オカマに見える時がある。
たまに、女が皆、金の亡者に見える時がある。

香水が、悪臭を薄めて作られるように、猛毒も、薄めれば良薬となる場合がある。


十人十

♪十人十色…もはや迷信なんじゃない?今や迷信なんじゃない?
これは、私が大昔に書いた曲、『紅い糸〜魚眼レンズの星の住人』の中の一節である。

十人十色…本当に、この言葉を心から信じて生きていけたなら、どんなに楽しいだろうと思う。
十人十色…十人が十人とも、個性と呼べるものを持っているということは、そこに十通りの、異なった生き方があって、お互いに干渉し合わず、それぞれがそれぞれに納得しながら、胸を張って生きていける、ということでしょう?
思うに、私は、たぶん、十人四色ぐらいにしか、考えていないと思う。十人十色なのは顔の造りだけじゃないか、と。いや、顔の造りだって怪しいぞ、だって、どいつもこいつも同じような顔をしてるじゃないか、と。

十人十色…今も昔も、私の耳には、理想論としてしか響かない。何故だろう。残念だ...。


小さな奇跡

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実は随分前から気になっていたのである。

うちの近所に幼稚園があって、その正面に、いつ見ても干からびているドブがあって、そうやって常に干からびているがゆえに、ドブの泥は完全に凝固して、鉄分の関係かなんか知らんが鮮やかな柿色に変色しておって、そこへ、何がどうなってそうなったのか知らんが、手作りポン酢の空き瓶が頭からズポンと突き刺さって、逆立ちしておるのである。

日暮れ時、ドブに頭を突っ込んでこの写真を撮影している私を110番通報しなかった保母さんたちの慈悲心に、心からの敬意を表します。


畏怖と味方論

「怖い」というのは、逆に言えば、味方にすれば、これほど頼りになるものもないということだ。

が、いざ味方にしてみると、味方になった瞬間から、どういうわけだかそいつに、以前の強さが全く見受けられなくなる、というのも事実だ。