盥2

子供の頃、いや、つい最近まで、私は、ドラマなどでよく耳にする台詞、「お前なんて勘当だ!」を、「お前なんて感動だ!」だとばかり思い込んでいた。

本来、良い意味であるはずの、「感動」を、相手を罵る言葉として使用していることに、いつも感動していた。日本語って深いなあ...などと感嘆していた。人を感動させるのは良いことだけれども、感動という感情が肉体を持つということ、人間そのものが感動の塊になるということ、いわば、『感動体』になるということは、罪なことなんだという、一種哲学的な、禅問答的な、アレやねんなあ...と思って、一人、うっとりしておったのであるが、或る日、「お前なんて感動だ!」は間違いで、「お前なんて勘当だ!」が正しいんだということを知った刹那、脳天に盥が落ちてきたような気がして、地面を蹴って、肩を落として帰宅した。


イマジン

「ジョンレノンは世界を変えることができなかった!」などと、ストリートで、ギターを掻き鳴らしつつ喚いてる男が、厄年に、厄払いをしたにも関わらず、両腕両脚を骨折して、インフルエンザにかかって、さらに、家庭が全くうまくいかず、離婚することになって、「ちゃんと厄払いしたのになぜだあ!」などと憤慨しているところへ、気の良さそうな、丸眼鏡を掛けた老翁が近寄ってきて、彼に、「それだけで済んで良かったですなあ。もし厄払いしてなかったら、今頃あなた、間違いなく死んでましたで。」と囁いたとしてもなお、やはり彼は、ジョンレノンは世界を変えることができなかったと思うんだろうか。


大きな天災に見舞われると、デジタルなものの脆さが一気に表面化してくる。そうして、そんな時にだけ、掌を返したように、皆が皆、「やっぱ、アナログっていいよねえ」みたいなことを言い出す。

で、喉元過ぎて熱さ忘れるや否や、「やっぱデジタルでしょ」って言って、家電屋に群れを成している。

先日、裏の公園で、制服を着た男子中学生が、ベンチに座って弁当を食べていた。天気の良い、暖かい、お昼時のことだったので、「あ、さては学校抜け出してきよったな。よかよか。こんなエエ天気の日は、外で弁当に限るよね。」と、目を細めて眺めていたら、中学生が持っていたものが弁当箱ではなく、i‐padだったので、脳天に盥が落ちてきたような気がして、地面を蹴って、肩を落として帰宅した。


子供の頃、黒澤明監督の『夢』という映画の、2話目(この映画は確か3つの話ー黒澤明が実際に見たという3つの夢から成り立っていたように思う。)を観て、恐ろしくて恐ろしくて、絶望的な心持になったことを覚えている。

富士山の麓の原発が数基、連続して爆発。そこら中に赤色、青色、黄色...あらゆる色の煙が漂っている中で、大勢の人間が完全な餓鬼と化して、全てを諦め切ったような、卑屈に歪んだ微笑を浮かべながら、こう言うのである。
「原発側はいつも、「放射能の種類ごとに着色してあるから、万が一、爆発しても、逃げられます。安全です。」なんて言ってたけれども、実際に爆発したら、ほら、この通り、何の意味もないよね。笑わせるよね。」

『夢』を観て以来、私は、原発の安全性をアピールするCMがまともに見られなくなってしまい、満面の笑みを浮かべて、「原発、安全です!」なんて言ってる高橋英樹の無自覚な無責任さや、「みんなでオール電化!」なんて快活に言ってる岡江久美子の平和呆け面に、言うに言えぬ違和感を覚えるようになってしまった。

子供心に、自分たちはなんてギリギリのラインの上で生きてるんだろうと思って、ゾッとしたし、あれは、『夢』は、私に、トラウマとも呼べるような物を確実に植え付けたらしい。

政府は、なかなか本当のことを言わない。発言が常に、後手後手に回っている。回している。そうして、今日の朝刊の一面には、地震で廃墟と化した場所にただ一人、膝を抱えて泣いている女の人の写真が大々的に使われていて、そこからページを2、3めくると、今日生まれたばかりの赤ちゃんの写真が、母親の真っ白な顔と一緒に、大きく載っていた。

夢はいつもカオスだ。


そっちがその気なら、こっちはこの気

「わけのわからん奴」という言葉があるが、考えてみれば、逆に、「わけのわかる奴」になって、一体どうしようというのだろうか。そんな奴の何が、どう面白いんだろうか。さっぱりわからん。

いつまでも、「わけのわからん奴」でいたい。その為の努力は惜しまない。

女という生物は、例外こそあれ、基本的には、「わけのわからん奴」を、徹頭徹尾、警戒し、嫌悪するが、私は、そんな女を、徹頭徹尾、警戒し、嫌悪する。

近寄るな、ボケ。


読書の覚醒

人生には、怨みに怨み、憎しみに憎しんだものが、ある日突然、何かの拍子に、将棋の駒のようにくるりと裏返って、愛着、愛情の塊と化す、ということがあるらしい。

元来私は、何が嫌いって、言葉が嫌いで、従って、本など殆どと言って良いほど読まなかったし、ましてや、「文豪」などと呼ばれている人たちに対する気持ちたるや、嫌悪そのものだったのであるが、今や、文豪及び作家と呼ばれる人たちに対する私の気持ちは、「羨望」の一言である。実にカッコいい。

ここ数ヶ月間、私は何かにとり憑かれたように、本ばかり読んできた。活字に対して飢餓感みたいなものがあって、読んだ尻から腹が減って、毎日欠かさず、雨の日も晴れの日も、古本屋に通い詰めて、洋の東西を問わず、あらゆるものを読んだ。

中でも夢中になったのは、大宰治と、芥川龍之介で、この二人の作品に関しては、ほぼ読破したし、他にも日本の作家では、坂口安吾と、織田作之助を筆頭に、二葉亭四迷、谷崎潤一郎、井伏鱒二、夏目漱石、山本有三(『真実一路』は実際に、泣いてしまった。)などが気に入って、面白くて面白くて夢中になって読んだ。最近の人なら、町田康は勿論のこと、綿吹真理子と、川上未映子がいい線いってると思って、でも、惜しい!と思うところもあって、次作をとても楽しみにしている。

海外のものでは、やはり、私は、サリンジャーが大好きで、昔に読んだ『ナインストーリーズ』をもう一度読んで、やはり感動したし、O・ヘンリーの短編の中にも、『警官と讃美歌』など、そんなに有名ではない話の中に、面白いのが多々あったし、ドストエフスキーの『地下室の手記』や、カポーティの『ティファニーで朝食を』(原作と映画とは全然違う。)や、ジッドの『未完の告白』なんかは、いちいち感慨深くて、気に入った言葉があれば紙切れに書き移して、部屋の壁の、大宰治のポスターの横に貼るなどしながら、時間を忘れて読んだ。

私は、自分が、こんなに本の好きな人間だったとは思いもしなかった。自分で思う自分像って、本当は間違いだらけなのかも知れないねえ。

追記)村上春樹は死んでも読まん。あの清潔感が、鼻持ちならん。あんなものは、ブルジョア、もしくは、ブルジョアに憧れておる貧乏人が、フローリング敷きのマンションの一室で、白ワインでもたしなみながら読めばよろしい。要するに、無味無臭、何の足しにもならん、面白くも何ともない。絶対、読まん。


コメントへの返信〜故郷の忘れ者様宛

反応速っ!
ありがとう。とりあえず、戻って参りました。
今まで以上に、自分に忠実に生きれば、たったそれだけのことで、今まで以上に、他にはない文章、思想の形が、このブログ上にズラリと並ぶことになるかと思います。

今後ともご愛読、並びに、コメント書き込み方、よろしくお願いいたします!