バニー・マツモロさんは、二度勝負を申し込んだら二度とも受けて立ってくれて、俺の言う「勝負」がただ同じ日に同じステージに立つということではないということを重々承知の上、真っ向から食らいついて来てくれた。
結果は、俺の個人的な感覚だと、一勝一敗。初戦は勝ったと思っているが、二度目は負けたと思っている。
素晴らしい勝負をした後に残る感覚は「一緒に良いものを作った」というクリエイティヴな感覚だ。
バニー・マツモロさんは、二度勝負を申し込んだら二度とも受けて立ってくれて、俺の言う「勝負」がただ同じ日に同じステージに立つということではないということを重々承知の上、真っ向から食らいついて来てくれた。
結果は、俺の個人的な感覚だと、一勝一敗。初戦は勝ったと思っているが、二度目は負けたと思っている。
素晴らしい勝負をした後に残る感覚は「一緒に良いものを作った」というクリエイティヴな感覚だ。
ロシアの大統領の名前でもなければソ連の大統領の名前でもないことに気付くのに4秒くらいかかった自分を心から情けなく思った。
ビーフストロガノフ。
先日、海賊ライチのスタッフと一緒にとあるライヴバーに顔を出した。
バーではイベントが催されていて、知った顔もいくつかあり、皆、俺の姿を見つけるや珍しい奴が来たとばかり近寄って来て、「お久しぶりです」とか何とか、俺の顔を下から覗き込むようにして言った。目つきに言うに言えない悪意を感じて、一発で自分が嫌われていることがわかった。「僕らみんな、こんな下手クソなライヴやってるんですよ」と強烈な皮肉を言ってくる奴もいた。
しかしまあ見事に友達減ったなあと思う。
昔、親父がよく「お前はすぐ友達友達って言うけど、そのうちみんなおらんようになるぞ。友達ってそういうもんなんやから」と言っていた。俺としては完全に「?」で、「そりゃ親父はそうかもしらんが俺は違う」なんて思っていたのだが、残念ながら、親父の言う通りになった。
親父の言う「そのうち」がこんなに早く来るとは思っていなかった。実際、親父にとっても「そのうち」はもっと先の設定だったと思う。なぜなら、親父が今の俺と同じ40過ぎの時、家に親父の友達がしょっちゅう遊びに来ていたことを覚えているからだ。思えば、親父には俺とは比較にならないくらい大勢の友達がいた。「友達なんてそのうちみんないなくなる」と言い出したのは50歳になるかならないかという頃からだったと思う。
周りの奴らが少年ジャンプを読んでいた時、少年チャンピオンを読んでいた。
周りの奴らがコロコロコミックを読んでいた時、コミックボンボンを読んでいた。
ビックリマンが大流行するまではビックリマンを買っていたが、ビックリマンが大流行するとドキドキ学園や秘伝忍法帳に乗り換えた。
近鉄バファローズの帽子をかぶっていた。
子供の頃から人と同じ物を持っているということがたまらなく嫌だった。
「絶対に人が持っていないもの」は金で買えるものではないものだということに気付いた時から自分で曲を作るようになった。
蓮華畑を見て一輪一輪に違いを見出せる人は、人混みの中に一人一人の個性をも見出せることができるらしく、それって、黒人の見分けがつかず、中国人と韓国人と日本人を見分けることすら危うい俺には超人的な能力だとしか思えないのだが、驚くべきことに世の中には、俺のような凡人よりも超人の方がはるかに多く存在するらしいことが、超人にしか理解出来ない言葉で彩られた歌『世界に一つだけの花』が愛されていることから知れる。
この歌の歌詞が嫌いで、「ナンバーワンこそがオンリーワンだと思う」などと非国民呼ばわりされても文句の言えない発言をしたのは、凡人の中の凡人でお馴染みのイチローであるが、彼のような人間からしてみれば、この歌は嫌がらせ以外の何物でもないだろうと思う。
全ての人間を「オンリーワン」というフレーズの下に雑に束ねてしまっている時点で、この歌の作者ほど「オンリーワン」という言葉の意味を理解できていない人間はいないと思う。だから、この歌を聞いていると「ナンバーワン」というフレーズには個を感じるけど、「オンリーワン」というフレーズにはモザイク処理が施されているようで微塵も個を感じない。
「ナンバーワンにならなくてもいい。ただボサっと生きてるだけでオンリーワンなんだからOK牧場♡」という「怠惰のススメ」みたいな歌。
一生ナンバーワンになれない怠惰な人間が上手い言い訳を探している怠惰な人間の為に屁理屈を捏ね回して作った乱暴な歌だ。
ライブハウスは音楽のみが売りなので、音響や照明に色々と注文を付けることができる。だから、音響や照明の世話をしてくれることに対して演者がお金=出演料を払うのは当然の事だと考える。だがしかし、例えば梅田のあるライブハウスだと、僅か30分の持ち時間に対して出演料が20000円もする。その点、ライブバーは音楽のみを売りにしているわけではないので、音響や照明については目を瞑るより他ないが、代わりに出演料がタダだったり、タダ同然だったりする。また、音楽のみを売りにしているライブハウスには(その鑑定眼が信用に値するものかどうかは別として)演者に対する厳しさがあり、終演後の精算時にダメ出しをされることもあるが、ライブバーにはこれがない。
ライブハウスが「闘いの場」であるのに対して、ライブバーは「社交の場」
普通に考えれば、身銭を切って闘っている演者のレベルの方が身銭を切らずに仲良しごっこを楽しんでいる演者よりも高そうなものだし、本来、そうあるべきなのだが、実際には大したレベルの差はない。ライブハウスにもゴミはわんさかいるし、ライブバーにも凄い人がたまにいる。
ところで、先述の梅田のライブハウスに話を戻すが、このライブハウス、チケットが前売りでも2000円する。1ドリンク別だから2500円ということになる。他によほど気になるのがいない限りは目当てのアーティストだけを観るとして、僅か30分のライブに2500円は高過ぎる。例えばこれが2時間のライブだとして換算すると10000円。これはかなりビッグな海外のバンドが来日公演する時のチケット代に相当する。さらに、これが前売りではなく当日だと500円増しで3000円。2時間に換算すると12000円!マッカートニーやストーンズじゃないんだからありえない。もし、これを相場だと、当たり前だと言うのなら、ライブハウスなど片っ端から潰れてしまえばよろしい。と、ここで、ライブバーの逆襲が始まる。
ライブバーだと、500円〜1000円のチャージを払うだけで入場できる。また、音響や照明についての配慮が、基本的に、演者の美意識よりもお客さんの居心地の良さに対して払われているので、ステージ上にいるのが目当ての演者ではなく、箸にも棒にもかからない演者である場合には連れと談笑してスルーすることができるし、ライブハウスと違って酒だけではなく料理を出してくれる店も多いから、ライブを観てああだこうだ言いながら腹を満たすこともできる。
好きなアーティストのライブを観に行くために一日休みを取る。ライブハウスに行って3000円払って30分で帰るのか、ライブバーに行って500円払ってのんびり過ごすのか。
俺としては、多少の身銭を切っても、自分の思う音と照明で演りたいと思う。それに、ロックであることにこだわりを持ってやってる以上は闘いたい。勝った時は勝ちに酔い痴れて、滅多にないけど負けた時は潔く負けを認めて…というのが楽しい。でも、わざわざ仕事を休んで、もしくは仕事の後に、遠路はるばる足を運んでくれるお客さんの立場になって考えてみると、やり方を見直す必要があるような気がしてくる。
もし、俺のライブに売りがあるとすれば、「ギリギリ感」だと思う。じゃ、そのギリギリ感はどこから来てるんだと言うと闘争心から来ているんだと思う。「勝ち負けの問題じゃないだろう」って言う人もあるし、実際に言われたこともあるけど、それはライブをエンターテイメントとして捉えているのか格闘技として捉えているのかの違いだと思う。言わずもがな、俺は後者だから、勝負にとことんこだわって、その我武者羅な姿で魅せたいと思う。目の前の相手を倒すことよりも客ウケを考えてるボクサーなんていないし、いたら嫌だろう。だから、俺のライブにはMCがない。
ライブハウスとライブバー。あちらを立てればこちらが立たずの一長一短。社交の場に闘争心を持ち込めば間違いなく浮く。そして、マナー違反だとばかり、他の演者に嫌われる。まあ、身近な所ではもう十分嫌われてるし、さらに嫌われたところでびた一文ヘコまないから別に構やしないんだけど、ヘコむことはなくても「このファッキンふにゃチン野郎どもが!」ってイライライライラして、イライラすることに猛烈に疲れるから面倒臭い。くだらないものはくだらない。「良かったですぅ」なんて心にも無いことを軽薄に、俺、口が裂けても言わないし。
でも、ね、まだほんの数人とはいえ、俺の音楽を気に入ってくれていて、毎回のようにライブを観に来てくれる人たちのことを最優先に考えるべきなのは確かなこと。そこで、今のところ、俺の中に一つのアイデアとして、僅か30分の為にライブハウスに高い金払うくらいなら、ライブバーを安くで借りてイベントを組むなどして1時間歌った方がよっぽど良いんじゃないか?というのがあったりする。
嗚呼、こうなったらもう納得いくまでとことん迷って、俺らしいベストな道を見つけるより他あるまい!
歌詞だけではなく、曲自体が新たな試みで、「和田怜士流フォーク」といったところ。
歌詞もメロディーも展開も、いつもならひねるところをひねらずに、グッと堪えて、シンプルであることに徹した。
主人公が小学生の女の子で、その言うに言えない怒りを表現したかったから、余計なひねりは厳禁だと思った。
自己評価よりも周りからの評価の方が高い。きっと、そんな曲になると思う。
通勤途中で毎朝のように見かける光景があった。
大人に手を引かれて登校している赤いランドセルを背負った小学生の女の子がいた。
おそらく学年の割には背の高い、痩せた、少し色黒の、髪を左右に束ねた地味な女の子だった。
女の子は学校に行くのが嫌で嫌で、大人の手を振りほどこうとしながら、道に座り込む勢いで抵抗して、泣きじゃくっていた。
いつも、ランドセルにぶら下げた給食袋が激しく揺れていて、それが切な過ぎて、見るに耐えなかった。
大人は親だったり、近隣の人だったりするらしかったが、いずれにせよ悲壮な表情を浮かべていた。
痛い光景だった。すれ違いざま、「そこまでして連れていかなあかんか?」と思うこと度々だった。
先日、その女の子がいつもの時間にいつもの場所をランドセルを背負ってこちらに向かって歩いてきた。
まるで別人。女の子の傍らに大人の姿はなく、表情はキリッと凛々しくて、足取りもたくましかった。
何があったのかは知る由もないが、物凄く良いものを見たと思った。
心の中で「立派やぞ!カッチョええぞ!」と叫んで、ちょっと泣きそうになった。
19の時、いわゆる「もぐり」で大阪芸大に通っていた。びた一文学費を払わずに、勝手に通って、勝手に授業を受けていたのである。
ある日、ちゃんと学費を払っている学生たちに紛れて学食で酒を飲んでいた時、「今、これから、完全にオリジナルなものなんて作れるものなのか?」という議論になった。
議論が始まった段階で「作れる」と主張したのは俺を含めた3人。「作れない」と主張したのも同じく3人だったのだが、議論の末、「作れる」と主張するのは俺一人になっていて、気付けば、長椅子を挟んで俺の前に「作れない」と主張する5人が並んでいた。「面接か!」と思ったのをよく覚えている。
22年前の俺に拍手を送りたい。
「もし、世の中に俺と全く同じ顔の奴がおったらそっち側に座るよ」と、誰が買ってきたんだかわからない桂花陳酒片手にニヤニヤしながら言い張ってた覚えがある。