くたばりやがれ

今年も伊丹で、コネのない地元のアーティストに一切門戸を開こうとしないフェスが開催される。

毎年、知らぬ間にメンツが決まって、知らぬ間に開催されて、知らぬ間に終わってる。

スチャダラ呼べて良かったね!

こんなクソみたいなイベントをやってる暇があったら、一つでいいから、伊丹にライヴハウスを建ててくれ。

スタジオもライヴハウスもない街で何がフェスだ。

馬鹿か。


任務完了

もう一度言うが、こう見えて、仕事中である。昨日職場で、年に一度の大きなイベントがあって、私は司会の大役を任されて、それで、こんな格好をしているのである。

盛り上がったし、良かったのではなかろうか。

音楽をやっている時、ライヴハウスやなんかで、「一緒に写真撮ってもらえますか?」なんてただの一度も言われたことがないのに、昨日はお年寄りを中心に10回以上言われた。

あるおばあさんが私に「あなたは何賊ですか?」と言った。「賊」まで出てきているのになぜ「海」が出てこないんだろうと思った。小さな女の子が目を丸くして、喉の奥の方で「うわっ!海賊や!」と言っているのが聞こえた。日頃から顔見知りのおばあさんが、「大人しい人だとばかり思ってたけど、あなたって本当はそういう人なんですね」と言って笑った。どういう人なんだと思った。

面白かった。

ヴィジュアル系の人たちの気持ちが、ちょっとだけ、わかった。


雫を求めて

ライヴ中に見るわけじゃないけど、私にも、自分の曲の歌詞を書いたノートがあって、歌詞を一部変更したり、新曲ができたりするたびに、書き直したり書き足したりしている。

先日、新曲の歌詞を書いておこうと思って、ノートを開いて気付いたのは、現時点で、自分のオリジナル曲が45曲あるということだった。本格的に曲を書き始めたのが22歳の時だったから、私のソングライターとしてのキャリアは今年で18年ということになるんだけど、18年で45曲というのは、普通に考えれば、少ないのかもしれない。少な過ぎるのかもしれない。が、これには理由がある。

まず、私はそもそも寡作家であって多作家ではない。自分の中にコップが1個あって、そこに時間をかけてゆっくり水が注がれていって、表面張力を破って滴り落ちてきた雫の部分が曲になる。だから、どうしても時間がかかる。

良い曲に限って一瞬でできる。でも、その一瞬は、そこに至るまでの膨大な時間があってのこと。

もう一つの理由は、私に、気に入らない曲をすぐボツにする癖があるということ。少しでも気に入らないとすぐボツにする。気に入らない曲は、ただただ恥ずかしいし、要らないものは要らないからボツにする。断捨離。

以上、二つの理由から、「18年で45曲」なのである。そして、以上、二つの理由から、気付いたことがある。Facebookの「友達」の数についてである。

私は、Facebookを始めて1年半近くになるが、「友達」が31人しかいない。ライヴ等で知り合う人の数を思えば、明らかに少ない。何故か。実はこれにも理由があって、二つの理由があって、二つの理由の内容は、「18年で45曲」と全く同じでなのである。

曲の数についても、「友達」の数についても、私の中に「量より質」という考え方があるわけではない。かといって、「質より量」という考え方があるわけでもない。あるのは「質も量も」という考え方のみ。だから、「45」という数字も、「31」という数字も、なかなかナイスな数字で、悪くないと思っている。

最後に、私が書いた『道化師の息子』という曲の中に、「数を誇るのは子供でもできる。大きさにものを言わせて踊れ」という歌詞が出てくるのだが、これは、「数」に対して「量」ではなく「大きさ」を持ってきているところがミソなんだと思っている。


☆3000☆

当ブログ「一憩合格」の記事数が、開始から6年半を経た本日、当記事をもって、遂に3000本に到達した。1日に1本のペースで10年書き続けたとしても、3650本にしかならないんだから、なかなかのペースで書いてきたものだと思う。

この達成感…これを分かってくれる人は、悲しい哉、あんまりいないと思う。でもね、TwitterやFacebookみたく、短くて当たり障りのない日記的な記事を書き連ねてきたわけじゃなくて、毎度、割と長くて、当たり障りしかないエッセイ的な記事を、身を削り、友達を減らしながら、書き連ねてきたんでございますよ。それも3000本。我ながら「よくやるな。馬鹿じゃないか?」と思う。

私の場合、音楽だけじゃ吐き出しきれないものがあって、それを、イラストを描いたり、文章を書いたりすることで吐き出してきたんだけど、文章を書くことはイラストを描くことよりも好きなことで、それこそ音楽に迫る勢いで好きなことだから、このキチガイ染みた「3000」という数字に辿り着けたんだと思う。もし、このブログがなくて、「3000」が吐き出されることのないまま頭の中に蓄積され続けていたとしたら…と思うとゾッとする。だから、管理人には感謝してもし切れない。

ありがとう!

さあ、次は私の大好きな数字「4」が頭にくる「4000」を目指して、書き連ねて参ることにいたしましょう。

「4000」に辿り着く頃、私はもっと、有名になってるかな?

「4000」に辿り着く頃、私はさらに、友達をなくしてるかな…。

「4000」に辿り着く頃、私はまだ、言いたいことを言えてるかな!


written by cobain/reishi

私の奥さんは、特別音楽に詳しい人というわけではないけど、たまにビシッと的を得たことを言って私を驚かせます。先日は『綺麗な動物』を聴いて、「ニルヴァーナみたいやね!」と言って、私を驚かせました。

そう言われてみれば確かに、出だしと終わりをカートが書いて、出だしと終わり以外を私が書いたような感じがあります。

カート・コバーンと和田怜士の共作…そう考えると嬉しいのなんのって!

こうなったらもう、やるしかない!

次回ライヴで初披露と参りましょう!


制作過程の物語

ティンカーベルのような存在がいて、そいつが、暗闇の迷路を歩く私の耳元で「そこを右に」とか「もう少し真っ直ぐ行ったら壁に突き当たるからそこを左に」とか言って道案内をしてくれる。私はその声にめちゃくちゃ従順で、これっぽっちも疑う気持ちがない。で、「さあ、着きましたよ」の声が聞こえたと思ったら、パッと明かりが点いて、辿り着いた場所が始めにいた場所であることに気付く。間違いなく始めにいた場所なんだけど、私は自分が迷路から脱出できたことを実感して、歓喜する。

新曲『綺麗な動物』は、初めて歌詞にメロディーを付けたこともあり(いつもは、先にメロディーがあって後で歌詞を付ける)、制作過程で、今まで感じたことのない流れを感じた。で、その感じたものを例えるとすれば、「ティンカーベルと私」になると思った。

とにかく、メロディーがあっちに行ったりこっちに来たりした。でも、今回、私はそれを咎めず、なるに任せた。すると、最終的には、メロディーはちゃんと元いた場所に戻ってきて、その瞬間に「形になった」と思った。

もう少し磨けば、絶対、良い曲になる。


気付いてもらえないのなら気付かせるまでのこと

和田怜士初の…っていうか、世界初のアコギ一本ロック・オペラ、新曲『綺麗な動物』 が順調に仕上がってきている。
1曲の中に5、6曲分の情報量がある、6分を超える大作。

さすがにこれで何人かは気付いてくれるのではなかろうか。

「和田怜士って天才なんだ」って。


人間の念

乱暴な運転の車に当たられそうになった時、「頼むからどっかで事故ってくれ!」と思う。できれば電柱やなんかに激突して、他人を巻き込まずに、運転してる奴だけくたばってくんねえかな…と思う。

車を乱暴に運転してる奴らは、人間の念というものをナメている。彼らは、おびただしい数の人間から「頼むからどっかで事故ってくれ!」と思われている。事故ることを切に願われ、祈られている。これだけの念が実を結ばないわけがない。よって彼らは、いつかどこかで必ず事故る。

ライヴハウスやライヴバーで、頭に「クソ」が付くほどくだらないバンドやソロの奴を見ると、「何の為に、誰の為に音楽やってんだ?やめればいいのに」と思う。それを声に出して言う客は一人もいないけど、皆がそう思っているのを肌で感じる時がある。奴らもまた、人間の念というものをナメている。一方、ごくごく稀ながら、素晴らしいライヴを見た時には、「何をグズグズしてやがる。とっとと売れやがれ馬鹿野郎!」と思う。これまた誰も声に出して言いはしないけど、素晴らしいものを見て、聞いて、嬉しいと思う気持ちは拍手の音の中に表れている。が、素晴らしいアーティストに限って自分の中のハードルが高く、自己評価が低いので、拍手の音の違いに気付いていなかったりする。彼らもまた、人間の念というものをナメている。

人間の念ーこれをもってすれば、地球上から戦争を一掃することだって難しいことではないと思う。でも、どんなに頑張っても、スプーンを曲げることはできないと思う。