<上>文字を排除したジャケ。<下>封入。こっちをジャケにしないところがミソ。
昨日、ようやく『Ⅳ』のレコーディングが完了した。二度の失敗を経た三度目の正直だった。で、早速ジャケットを作った。レコーディングに比べて、ジャケ作りの何と気楽なことか。ただただ楽しいだけなので、すぐに仕上がります。
シンプルかつ荘厳なるジャケが、ある種の危険物がここにあるんだということを物語っている、怒りの塊のような一枚です。
⬆︎チャック・ベリー
ジョン・レノンが「ロックンロールに別の呼び名を与えるとすれば、それは『チャック・ベリー』だ」と言ったのは有名な話であり、また、キース・リチャーズが、神と崇拝するチャック・ベリーの為に映画を制作、共演した際に、「お前のギタープレイが気に入らない」とチャックに殴られて、殴られたにも関わらず、「他の誰かに殴られたのならまだしも、チャックに殴られたんだから仕方がないよ」と言って一切殴り返さなかったのも、有名な話である。
ロックンロールの創始者の一人であり、89歳となった現在も、演奏は救い難くグダグダながら、現役バリバリにライヴ活動を続けている怪物のようなジジイーチャック・ベリーは、バックバンドのメンバーを固定しないことで有名で、行く先々で地元の、素人に毛が生えたようなミュージシャンを従えてステージに上がる。そして、素人に毛が生えたような奴らを従えておきながら、リハーサルをせず、どの曲をどんな順で演奏するのかさえバンドに告げず、いきなり歌い出すものだから、バンドは非常に困惑するのだが、そうやって困惑しているバンドを睨みつけて、「この役立たずどもが」と罵倒する、めちゃくちゃなジジイなのである。強姦罪か何かで逮捕されたことも何度かある。死ねばいいのに。でも、みんな大好きチャック・ベリーなのである。
最近、そんなチャックのCDをよく聴く。私が持っているのは3枚組のベスト盤なのだが、ビートルズやストーンズがこぞってカバーした、ロックンロールの古典とも言えるナンバーがこれでもかと続く。一瞬の閃きだけを頼りに、作曲からレコーディングまでを僅か3分の内に片付けてしまったかのような、同じようなパターンの曲が延々と続く。食っても食っても飽きのこない金太郎飴。最高。
でも、彼のバックでギターを弾きたいとは思わない。
最近、本当にモノラルな音が好きになった。
例えばラジオ。「AMラジオがステレオで聴けるようになった」なんて言ってるけど、私に言わせれば、それだとAMラジオの意味がない。台無しなのである。AMラジオの最大の魅力は、何と言ってもあのモコモコしたモノラル音だと思う。
心細い時ーそりゃまあ私も人間だから、たまにそんな時もあるんだけど、FMラジオのクリアな音は全然、何の救いにもならないのだが、AMラジオのモノラル音には不思議なくらい癒される。この感じ、わかっていただけるだろうか。
それから、AMラジオは、DJもいぶし銀で良い。例えば、道上洋三、浜村淳、桑原征平。あの人たちの声なんて、あれはもう完全にAMラジオのモノラル音に特化された声であって、ステレオで聴くべき声ではない。ステレオで聴いたら、それこそ台無し。ラーメンをフォークで食うようなものである。
ところで、ヒロTとクリス松村は似ている。左目でヒロTを見、右目でクリス松村を見た時のものの見え方を「ステレオ」という。
バンドをやっていた時には、「バンドマン」と呼ばれるのがすごく嬉しいことだった。光栄なことだと思っていた。『称号』くらいに思っていた。ところが、ソロに転向するやたまに「弾き語りの人」などと呼ばれるようになってしまった。
心外だ。
何度も言うようだが、一体何なんだ「弾き語り」って。世の中に「弾き語り」ほど貧乏臭い言葉が他にあろうか。「落語」の5万倍貧乏臭い。
「弾き語り」と聞いて真っ先に思い浮かべる画は、何年も洗濯していないチェックのシャツを着た友達のいない男が、一切陽の射さないアパートの一室の片隅のボロボロな畳の上に座って、拾ってきたフォークギターを爪弾いている姿であり、その悲壮な後姿である。彼が弾き語るのはどうせ「僕の目はよく死んだ魚の目みたいだなんて言われるけれども、汚染された神田川に浮いていた死んだ魚の目は本当に死んだ魚の目だからもっと死んだ魚の目だった」みたいな歌だと思う。そして、タイトルは何故か『国鉄ブルース』で、サビ部の歌詞はどうせ「パンを買うための金でクレパスを買ったらパンを買うための金がなくなった」みたいなことだと思う。
…嫌だ。絶対に嫌だ。「歌うたい」ならまだしも、「弾き語りの人」呼ばわりだけは絶対に勘弁して欲しい。なので私は、私のキャッチフレーズを「弾き語らない」とした。
そりゃ、歌いもすれば叫びもするよ。でも語りゃしないし、それより何より、ソロだろうが何だろうが、私はあくまでバンドマン。一度たりとも、弾き語りの人たちに負けるわけにはいかない。一度でも負けたら、バンドマンたちに合わせる顔がないんだから。
世界に一つだけの顔なので、誰に許しを乞うでもなく、世界に一つだけの生き方ができても良さそうなものです。また、世界には三人だけソックリさんがいるそうなので、世界に三人は似たような生き方をしている人間がいると考えても良さそうです。
昔、私は、とあるライヴハウスで、世界に三人いるとされる自分のソックリさんの内の一人に会ったことがあります。あまりに似ているので、周りの人たちは皆、大爆笑でしたが、当の本人たちは無言で固い握手を交わして、抱き締め合いました。
私は、彼の身体の奥底から「同情するぜまったく」という言葉を受け取りました。彼は彼で、私からの「うるさいよバッタもんが」という言葉を受け取ったと思います。
抱擁を解くと、二人とも不気味な笑顔を浮かべていました。
同じような顔をして。