挿話『象牙の印鑑』〜微修正完全版〜

僕が今、一番欲しいもの―それが、象牙の印鑑なのです。

あれはちょうど半年前のことでした。僕は、通勤途中にある質屋のショーウィンドウの中に、あの象牙の印鑑を見掛けて、一瞬にして心を奪われてしまったのです。それからというもの、食事は喉を通らず、夜も眠れず、仮に眠れたとしても、夢の中で象牙の印鑑を見てしまうという始末で…寝ても覚めても象牙の印鑑、象牙の印鑑。

買えば良いではないか―とお思いでしょうが、あの象牙の印鑑は、お賽銭泥棒を生業とする僕のような者にはとても手の届かない高嶺の花のような象牙の印鑑なのです。

そうして僕は、来る日も来る日も想い続けました。あの柔らかい乳白色を想い続けました。するとどうでしょう!ある日気が付くと僕の中に、喪失感としか言い様のないものが出来上がってしまっていたのです!

もちろん、あの象牙の印鑑が僕のものであったという過去はありません。今も昔も、あの象牙の印鑑は僕のものではありません。僕はただ、心から、手に入れたいと願っているだけなのです。だから、決して「喪失」ではないはずなのです。だいいち僕は、あの時あの質屋の前を通り掛かるまでは、シャチハタで十分社会生活を営めていたんですから。にも関わらず…にも関わらずです。今、僕の中にあるのは喪失感なんです。

ああ!僕は一体何を失ってしまったんだろう!ああ!シャチハタを握り締めてヘラヘラ笑っていた頃の僕は何処へ?

「要するに、ハンコをお忘れになったんですね…」


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