説明過多を説明する

私は、映画があまり好きではない。私は、「芸術」と呼ばれるものは大概好きだが、写真と映画だけはあまり好きではない。さらに言うと、映画好きを自称する人のこともあまり好きではない。もちろん、映画好きを自称する人の全てがそうと言うわけではないけれども、映画好きを自称する人には馬鹿が多い―と確信している。

映画というのは、音楽的要素と、文学的要素と、絵画的要素が渾然一体となったものだと思う。だから、感受性に乏しい馬鹿にもわかるし、理解できるんだと思う。だって、音楽の力と、文学の力と、絵画の力がミックスされているものが映画なんだから、自分の両手のどっちが右手でどっちが左手なのかを言える頭さえあれば、理解できるはずだし、理解できて当たり前なはずなのである。

私が映画をあまり好きでない理由―音楽の力と、文学の力と、絵画の力とをミックスさせたら、本来であれば、めちゃくちゃ面白いものができて当たり前なはずなのに、くだらない映画があまりに多過ぎるからである。最高級の食材を使用しておきながらクソ不味いものを拵えるなアホンダラ!ということなのである。

私は、音から言葉や絵を想像することの方がずっと楽しいし、言葉から音や絵を想像することの方がずっと楽しいし、絵から言葉や音を想像することの方がずっと楽しい。

映画は、説明過多だ。だから、浜村淳も説明過多なのです。


コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。