JUST SAY NO

人は言う。「責任感があるから緊張する。責任感がなかったら緊張なんてしない」と。また、「どうでも良くないことだからこそ緊張する。どうでも良いことなら緊張なんてしない」とも言う。一理ある。でもそれって普通だろう。普通の人はそうだというだけの話であって、本当の緊張しぃには当てはまらない。もし、上のように考えている人がいるとしたら、本当の緊張しぃの気持ちなんて理解できないと思っておいた方が良い。

本当の緊張しぃには、責任感云々なんて関係ない。どうでも良い/良くないなんて関係ない。だから、いかに苦しくとも、その苦しみを上手く説明することができない。どうせ理解してもらえないだろうと諦める。責任感がなくても緊張するし、どうでも良いことをする時にも緊張する。つまり、どうでも良いことすらまともにやれない、能力が発揮できないということ。これが狂おしいのだ。

バスに乗れない人がいる。痴漢に遭ったとかそういうわけでもないのに、ある日突然、手が震えて、冷や汗が出て、怖くて乗れなくなったという人がいる。バスに乗るのが怖い。この気持ちを理解してあげられる人がどれだけいるだろう。あるいは、人と喋る時、相手の目を直視できない人がいるけど、そのことについて、理解できなくても、理解しようとする人がどれだけいるだろう。理解しようとする時、自分の中に考える引き出しをどれくらい持っているだろう。引き出しのなさは、常日頃の人に対する興味のなさから来ている。だから、引き出しのない人間に人を理解できるわけがないし、結論から言えば、そもそも理解しようとはしないだろう。緊張しぃのことも、バスに乗れない人のことも、相手の目を見て喋れない人のことも、雑に一纏めにして「精神疾患」なんて言葉で括るんじゃないか?もし、そんな奴がいるとしたら、いや、実は相当数いると想像するけど、それはそいつらこそ精神疾患だと思う。

緊張しぃでも、バスに乗れなくても、相手の目を見て喋れなくても、生きていける。欧米では、教育として、子供に「just say no」という言葉を教えるという。要するに、「無理なものは無理と言いなさい」「嫌なものは嫌と言いなさい」という意味なのだが、日本人にももう少しこの考え方が定着すれば良いのにと思う。緊張しぃでも良いじゃないか。バスに乗れなくても良いじゃないか。相手の目を見て喋れなくても良いじゃないか。誰よりも理解に飢えているからこそ、人を理解しようと努力する。そうして、人の、言葉にならない苦しみを理解できる。人を理解することについて都合良く「just say no」を持ち出してくる精神疾患野郎どもより、長い目で見ればずっと楽に、幸せに生きていけるに違いない。

「人は一人では生きていけない」これほど揺らぐことのない原則はないんだから。


3件のコメント

  1. 本文からは逸れているかも知れないが、
    今、noと言い切れなくて苦しい。
    迷惑かも知れないが、何か言わなければ自分を保てなくなってしまいそうだ。
    此処を駆け込み寺のように使って申し訳ない。

    歓喜一変、広がる曇天
    もう繰り返さないと誓ったのに
    知らなかったんだ
    こんな絡繰りが用意されていたなんて。
    自分はまるで丸腰侍
    日本刀を奪われ
    渡されたのは
    引き金すら引けない錆付き西洋銃。
    これで戦えと?
    弾丸なんて出やしない。
    その重さだけがずっしりと
    意識の奥底までのしかかる。
    今更のみっともない大人の後出しジャンケンに
    noと言えない自分は
    もっと惨めで情けなくて無様。
    なのに
    黙って錆びた銃を磨こうとしている。
    そしてそうするんだろう。
    そうしてしまうんだろう。
    何をやっているんだろうと思いながら。
    恥ずかしい。
    この手で自分の首をねじりちぎれたら
    楽になれるだろうか。
    滴る血で汚された荒野
    自分でちぎれた頭を引きずりながら
    自分を嘲笑えば
    気も晴れるのだろうか。
    それとも後悔だけが残るのか。
    消えてしまいたい。

    1. 例えば介護職。あれは崇高な聖人か底無しの馬鹿にしか出来ない仕事だ。というのが、あの仕事に数年間籍を置いていた僕の結論です。要するに、全部受け止められる人か、全部受け流せる人か、という事です。

      例えば強い人。本当に強い人はほんの一握りで、大半はただ鈍感なだけの馬鹿だと思います。これもつまりは、全部受け止められる人か、全部受け流せる人か、という事です。

      例えば気遣いの出来る人。本当に気遣いの出来る人は常にギブ&ギブで、見返りを一切期待しません。人に何かしてあげても、してあげた時点で、してあげた事を忘れてしまいます。こんな人は滅多にいません。俗に気遣いが出来ると言われている人の大半は、見返りを前提として動く、「気遣いさせる人」だと思います。だから、本当に気遣いの出来る人の気遣いは全身で受け止めて、感謝すべきだと思いますが、気遣いさせる人の気遣いはテキトーに受け流すのが身の為だと思います。

      僕自身そうなんですが、良い歳をして「受け流す」というのが下手です。入ってきた言葉や情報が、いちいち頭の中で引っかかって出て行かずに停滞して…換気の悪い部屋みたいです。

      受け流せない人は無駄に苦悩します。聖人の真似事をする事も、強い人の真似事をする事もできぬまま、気遣いさせる人に翻弄され続けるからです。だからこの際、思い切って馬鹿になってみませんか?戦場に、刀や銃ではなくヤカンを持って。受け流す事を覚えて。

      僕も頑張りますから。ね?

  2. ありがとうございます。無理やり意味付けをして自分を納得させながら西洋銃を磨く自分が嫌すぎて。
    犠牲にするものも多いが死に物狂いで巻き返します。

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