これは先日、私が37歳になった日に撮影したものである。
空に細い、妙な形をした雲が浮かんでおり、これが長髪の人間の頭の輪郭に見えて、実際には無い首から下、身体の部分が想像できたのだが、僅か数秒後には千切れて消滅していた。
今日、うちの母親が、親父が遺した数々の品物の中から、ほぼ未使用の便秘薬を見つけて、私にこう言ったのである。
「便秘っぽい人がおったらこれあげて」
皆さんは「便秘っぽい人」というのを見たことがあるだろうか。下腹部が張っているからといって、便秘とは限らない。また、もし仮に、私が散歩中に「便秘っぽい人」を見かけたとして、私はどうすれば良いのだろうか。そっと近づいてって、懐からおもむろに薬を取り出して、「これ使いまへんか?」と、小声で囁けば良いのだろうか。それでは完全にヤクの売人ではないか。良い歳をした丸坊主の男が懐から薬を取り出して見ず知らずの人に「これ使いまへんか?」はアカンだろう。十中八九通報される。
私は、どうすれば良いのだろうか。
私は、自分自身のメンタル的な疲れについてよくわからない。が、最近ひとつ、気付いたことがある。
私は、メンタル的に疲れてくるとメタルを聴きたくなるらしい。
メタルは、私の学習意欲を微塵も掻き立てないから良い。ビートルズやストーンズやオアシスを聴くとどうしても学習意欲を掻き立てられてしまう。「勉強せねば」と思ってしまう。が、メタルにはそれがない。何も考えなくて良いから気が楽だ。特に、早弾きギタリストを擁するメタルバンドなんてのは最高だ。
メタルは、めちゃくちゃ難しいことをやってるのに救い難く頭が悪そうで、聴く分には良いけど、私自身が演る分には全くもって興味がないから、ただただスカッとする。嬉しくなる。
メタルは良い。アホで良い。現に私は、エンヤなんかよりずっと、イングヴェイに癒される。
成人の日ー私は行かなかった。小学生の時分から死んでも行かないと心に決めていた。
「あれに行ったら、行ってしまったら、ただ世の中の一部としてだけ生きて、死ぬことになるんだ」と思っていた。あれに行くことは、「世の中のあり方に喜んで従います」って言ってるのと同じことだと思っていた。めちゃくちゃカッコ悪いことだと思っていた。
どこにいるのか「大人」に招かれて、誰が決めたのか「形式」にのっとって、スーツだか袴だか振袖だか、取ってつけたような間抜けな格好を成人式だからと言って恥ずかしげもなく意気揚々と子供丸出しの表情を浮かべてしておきながら、後々、「自由がねえ」とか「個性を認めろ」とか抜かすのは絶対におかしいことだと思っていた。
自分から好き好んで型にハマりに行くような人間に、他人から「今日からあなたは大人です」と言われて「大人」になった気になれるような人間に、自由も個性もへったくれもないだろうと思っていた。
今日もニュースで、性懲りも無く全国各地の成人式の模様が映し出されていた。行かなくて良かったと、心から思った。相変わらずクソ馬鹿馬鹿しい儀式だと思った。
新成人のスピーチ。「我々は大人としての自覚を忘れずー」
笑わせる。
忘れたくなかったらはなっから覚えなきゃいいんだそんなもの。
記事にするのが少し遅れた。が、書かないわけにはいかない。
海原しおりさん死去。享年58。早過ぎる。
ベテラン女漫才師の中でダントツに可愛い人だったと思う。歳をとっても不思議なくらい可愛かった。「歳をとるほどに可愛いかった」と言っても過言ではない。
可愛いのに、声やノリは完全に大阪のおばちゃんで、声やノリが完全に大阪のおばちゃんなのに、可愛いかった。
私は、お笑い芸人というのは、教師や医者に負けず劣らずの「聖職」だと思っていて、中でも、しおりさんクラスのベテラン上方芸人は、吉本、松竹を問わず、存在自体が特別な「味」の塊で、身近なる雲の上の存在だと思っているから、こういう人が若くして亡くなるというのは本当にショックだ。
可愛いおばちゃんが去り、愛すべき不良が去り…大阪が、静かに哭いて揺れているのを感じます。