採用通知

17日より新たな職場(施設)にて勤務開始。

身体で覚えたことを頭で思い出そうとしても全っ然思い出せないことをわかっていながらも頭で思い出そう思い出そうとして全っ然思い出せなくてめちゃくちゃ焦って不安ではありますけれども釈迦力に頑張ります。


あれ?

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いまだによく間違える。この人のヒット曲は「私鉄沿線」であって、「有刺鉄線」ではない。
最初に完全に間違えて覚えてしまっている上、間違いに気付くまでに10年以上かかってるから、頭でははっきり「私鉄沿線」だとわかっているのに、いざ声に出して言おうとすると「有刺鉄線」になってしまう。

だからもうこの際、有刺鉄線で良いのではないかと思っている。私だけではなく、全ての日本国民にとって、五郎最大のヒット曲といえば有刺鉄線ーってことにしようではないか。

有刺鉄線ーそれは、歌詞にやたらと「ソ連」が出てくる亡命についての歌で、リズムはレゲエながら、メロディはさだまさし。歌っているのは里見浩太朗である。


嬉しかったから考えた

今日、「長生きして欲しい」と言われた。

36歳にしてそんなことを言われるのもいかがなものかとは思うけれども、なぜかびっくりするくらい嬉しかった。

長生きして欲しいー老若男女を問わず、愛ある言葉の最たるものではなかろうか。だからこの言葉、老人に対して言うのももちろん良いけれども、それ以上に、生まれたばかりの赤ちゃんや、子供に対してこそ繰り返し言うべき言葉なのではなかろうか。

例えば、我がの子供に優しい人間になって欲しいと願うのは親心。それはわかる。わかるが、「優しい子になってね」などと、親がまともに答えをわかっていない漠然とした難問を子供に出して無責任に託すくらいなら、先に答えを、優しさのなんたるかを、「長生きしてね」という言葉でもってわかりやすくズドン!と出してあげて、教えてあげて、子供には、その答えに至る問題を、人生の中で考えるようにしてやった方が良いのではなかろうか。

ま、「お前が言うな」という話ではあるが、たまにはえじゃないか…。


揚げ出し豆腐の表面の感じ

言葉って、頭そのものだと思う。だから、頭を解放してやりたい場合には、言葉で遊んで、言葉を壊して、言葉を解放してやるのが一番だと思う。でも、言葉の遊び方や壊し方や解放の仕方を知るためにはまず言葉を知るところから始めないといけないから、結局はまた頭に戻って、頭が痛くなって、「このクソ脳みそ野郎があ!」ってなってサッポロ酒造。酒で頭をふやかそうとするんだと思いまふ。


QUEEN

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久しぶりにクイーンを爆音で聴いてみた。

凄い音楽。最高だ。

中学生の頃、聴き倒してた時には、ベタに「ボヘミアン・ラプソディ」や「キラー・クイーン」が好きだったのだが、今聴くと、「セイヴ・ミー」や「ラヴァー・ボーイ」にグッとくる。とりわけ、「サムバディ・トゥ・ラヴ」は、油断してるとダラダラ涙が出てくる、心して聴かないとヤバい、名曲中の名曲だと思う。

クイーンってえと「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と「ウィ・アー・ザ・チャンピオン」とフレディ・マーキュリーの残念なルックスしか知らない日本人は、ビートルズってえと「イエスタディ」とジョンとポールとリンゴしか知らない場合が多くて、そんな奴に限って、海外のロック=ボンジョヴィ、下手すりゃロック=ボンジョヴィだと思っているフシがあったりなんかして、それをまたドヤ顔で語りやがるから、そんな奴に出会うたびに自分の身体を流れる日本人の血が恥ずかしくなって、嫌になって、どこか遠くへ亡命したくなる。

淡路島あたりに。

日本じゃねえか。


街の酒屋さん

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品揃え薄っ!

同じ種類のワンカップをわざわざ中段と下段に一本ずつ分けて置いてあることの意味がわからんし、私の中でマズい発泡酒の代名詞である金麦とのどごし生が350mlと500mlの両方揃っちゃってるし、その割には、唯一置いてあるサッポロの商品がサッポロ唯一の汚点であるドラフトワンであるということがサッポロファンとして解せんし、見るからに悪酔いするだけのチューハイが4缶も並んでるし、この自販機の中で私が唯一好きなキリンラガーが中段の左隅という極めて地味なポジションを任されておるということが許せんし、上段の淡麗と淡麗との間に4缶分の間隔を設けてあることの意味がさっぱりわからん。

スーパードライもいらんっちゃいらん。


ガン見教室

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年配の方々の中にはご存知ない方もおられると思いますのでお教えしますが、「ガン見」というのは、ガン検診のことではございません。ましてや、朝から晩まで拳銃を眺め続けることでもございません。写真の猫のこれ。これが「ガン見」でございます。

一般的に「ガン見」は、そこに強い念のようなものがあれば物を曲げることができると言われております。例えばスプーン曲げ。昔、スプーン曲げで一世を風靡した由利徹なんかは、この「ガン見」のプロフェッショナルでございました。彼の場合は、老婆の格好をして衣類を繕いつつ、たまに誤って、手にした針を自身の頭に突き刺して流血。頭から噴水の如くに血を流しながらも眼前のスプーンをガン見で曲げ、その曲げたスプーンでカレーライスを食うという離れ技の使い手でした。

さて皆さん。ここでもう一度写真をご覧ください。これは猫です。猫のガン見は、人間のガン見では到底曲げることのできないものをも曲げてしまいます。その証拠に私。私を見てください。この猫のガン見にさらされた私をよく見てください。ね?ものの見事に曲がってるでしょ?

性格が。


5分後

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微動だにせず。

以前は、蝶であれトカゲであれ風に揺れる葉であれ、動くものにはことごとく過剰反応して、手を伸ばすなり飛びつくなりしていたのだが、いまや見よ、この落ち着き払った態度。武田信玄以来の山である。

ま、ただ寒いだけなのかもしれんが。


理系と文系の末路

学生時代、私は完全なる文系で、歴史が好きだった。一方、とある友人は完全なる理系で、数学が得意だった。

文系極まる私にとって、数学ほど嫌いなものはなくて、理系極まる友人にとっては、歴史ほど嫌いなものはなかった。

友人は、歴史好きな私に「お前見てきたんか!」と言い、私は、数学を得意とする友人に「0.01のズレくらいどうでもええやんけ!」と言った。

時は流れ…二人とも恐ろしくぎこちなく生きている。各々の星の下、それなりに苦労している。
片や、人生を意地でも理屈や理論の枠内で捉えようとし、片や、人生を意地でも理屈や理論の枠外で捉えようとして。
どっちもどっち、極端過ぎてどうにもならない。が、私にも友人にも、いまだ反省の色はない。