「わからんでもない」ではなく、「わかる」のである。
人を好きになった時のレノンの気持ち、私にはよ〜くわかるのである。
救いがたいのである。
寝ても眠たい。抜本的に疲れている。が、そんなことではイカンので、これはもう焼肉しかあるまい。今夜は意地でも焼肉を食いに行く。高い安い旨い不味いは関係ない。
肉を食わねば…肉を食わねばなるまい。身体が肉を欲している。肉が肉を欲している。
バラ食って、丸腸食って、センマイ食って、もう一回丸腸食って、ハラミ食って、ツラミ食って、丸腸食って、ウインナー食って、ウインナー食って、ウインナー食って、レタス焼いたら縮んで、縮んだレタス見ながら丸腸食って、いつまで経っても焼けない玉葱をひっくり返している暇があったら丸腸食って、冷麺頼んで、「余計なことをすな」とつぶやきながらリンゴどけて、骨付きカルビ頼んで、肉捨てて骨食って…。
それは別に「家」でなくとも、例えば会社と家庭といった狭い世界の中を、行ったり来たり、登ったり降りたりしておるだけだというのは、立派に「引きこもり」だと思う。
引きこもりは、自分の身の周りにある物や人を「全て」だと思ってしまう。そして、その「全て」に執着するがあまり、あれよあれよと依存して、「全て」の微々たる変化に過剰に反応してしまうようになる。本当はちっとも全てではない「全て」をむやみやたらに掘り下げて、気付けば自分は、自分の掘った穴の底に立っていて、よじ登ろうにもよじ登れなくなってしまう。
例えば、「鬱だから引きこもるのか。引きこもるから鬱になるのか。」という問題について私は、どちらかと言えば、後者が真相に近いのではないかと思っている。
だから人間、大いに外へ出て、色んなものに見て触れて、「全て」の幅を拡げて、自分の生活圏内で起こる微々たる変化などには気付かない、惑わされない「鈍感力」が必要だと思う。
私という人間は、実は、他人から嫌われるということを極度に恐れている人間なのである。そして、この生まれもったオカマのような気質に、めちゃくちゃに悩まされ続けているのである。
本当は、自分のことを好いてくれている人がいる一方で、好いてくれている人と同じ数だけ自分のことを嫌っている人がいる―というのが理想なのだが、いかんせん私は、救いがたくヘタレな人間なので、そうは問屋が卸さないのである。
世の中には、他人に嫌われることを屁とも思っていない、やたらと茎の太いドドメ色のたんぽぽみたいな人がいて、それはそれは迷惑な存在なのだがしかし、私はどこかで、彼ら(彼女ら)を、「畏敬の念」としか言い様のない陰鬱なる羨望の眼差しでもって、見つめているのである。
人間として、動物として、生物として、その生命力について、心の底の底から羨ましいのである。
私ははっきり言って、生まれてこの方、「男らしさ」なんて、考えたこともない。念頭にない。ど〜でもいい。私はただ、常に、出来る限り、ロックな感じでありたいと思っているだけである。
単純に、曖昧な物言いよりは、はっきりした物言いの方がロックな感じがするし、また、石でできている橋を無駄に叩いて渡るよりは、明らかに若干腐ってる木造の橋の端ではなくド真ん中を歩いて、お約束的に落下して、上島竜兵ばりのリアクションを、誰も見ていないのに全力で披露することの方が随分とロックな感じがするから、そうしてきたし、今後もそうするまでのことである。
ただ、最近思うのは、問題なのは、誰もまともに「ロック」を知らないということである。
驚くべきことに、一般ピーポーは、誰一人ビートルズを聴いていないし、ストーンズやツェッペリンに至っては音はおろか、その存在すら知らない間抜けが大半を占めるので、私が「ロック」を口にしたところで、「ああ、あの馬鹿みたいなやつねっ!」などと言われて終わりなのである。
例えば私は、このブログ上で、繰り返し、素晴らしいバンドやアーティストや、彼らがこしらえた名盤を紹介してきた。でも、結局は誰も聴こうとはしないから、いつまで経っても私の言う「ロック」は理解されないままで、ということはつまり、私の言動や行動についても誤解されっぱなしで、たまに、ごくごくたまに、いい人が「あんたは男らしいねっ」みたいなことを言ってくれるが、私としては、「いやいや、だから言うてるやん!俺はロックな感じでいたいだけや言うてるやん!」と思うのであるが…もうええわ。
うちの親父がよく、「弱い人間ほど強いもんはないぞ。」って言ってたけれども―
私は、
ぬるい人って強い―と、つくづく思う。
どっちつかずな物言い、姿勢の人って強い―と、つくづく思う。
ぬるい人と接している時、私はいつも、自分の意に反して、剛の人になってしまう。
「柔をもって剛をなす」
いちいちなされてしまって、いちいち勝てない。
イライラする。
最近、ジミヘンばかり聴いている。
今まで、60年代のバンド/アーティストをこよなく愛する私が唯一手を出してこなかったのがジミヘンだったのだが、ここへきて、「ジミヘンしかねえだろう!」みたいなことになっている。
ジミヘンのギターの音に触れてつくづく思うのは、音楽というのは、耳に訴えかけている間は、「聴かせている」間は、まだまだ表層的で甘いんだということだ。聴く側も、耳で聴いている間は、「聴いている」間は、まだまだなんだろうなということだ。
今、レディオヘッドがバンド単位で表現してみせていることを、ジミヘンは40年前に、ギター一本で表現していた。
ジミヘンが、ビートルズ、ディランに並んで、「神」と言われることに、私は、何の異論もない。そのくらい、凄い。