明日への活力

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今夜は仕事の後、阪急伊丹駅前の居酒屋で、職場の皆さんと飲み会であった。

めちゃくちゃ楽しかった。

本当はまだまだ飲みたいんだけど、明日、また仕事だからね。

しかしまあ、本当に、最近の私は、不味い酒―酔えりゃなんでもいい酒―を飲まなくなったよ。


母音ロック

日常的には、嬉々としていたい。

恋愛的には、鬼々としていたい。

音楽的には、輝々としていたい。

―いずれにせよ、危機としていたくはない。

―いずれにせよ、私が中学高校を通して最も好きだった人の名は「美樹」だった。


振り返って諭す

「努力は報われる」というのは、事実だと思う。真実だと思う。一生懸命やってる人間が、何らかの形で報われるのは当然だと思う。でも私は、我慢や、辛抱や、忍耐といったものを、その実態を度外視して、全面的に「努力」と呼ぶのは、違う気がする。

「こんなに頑張ってるのに…」という言葉を漏らす人に限って、我慢や辛抱や忍耐のことを、そっくりそのまま「努力」であると勘違いしている。

人が我慢や辛抱や忍耐と呼ぶもののほとんどは、元を辿れば、自分が選んだものだ。誰が押し付けたわけでもない、嫌ならやめりゃいいじゃないかといった次元のものだ。でも、それをやめようとしないのは、そんないたいけな自分が好きだからだろう。自分のことが好きで、自分に酔っていられてる時点で、すでに報われているんだから、それ以上に報われたいなどと言うのは、欲深いというものだ。

自分で選び取ったものを背負って、「重いなあ…」などと呟いて、迷惑顔を浮かべながら歩くことを「努力」と呼んで、「こんなに頑張ってるのに…」などとぼやくのは筋違いだろう―と、私は、かつての私に言ってやりたい。


頑張れやすし

私の分析によれば、ポスト島田紳助は、笑いの角度や、キャラの立ち方や、ルックスや、声色の感じから言って、千原ジュニア以外に考えられないのである。

ジュニアは今、物凄くいい位置にいると思う。で、この「位置」というのが、昔、漫才ブームが終わった後に、紳助が探し当てて立っていた位置のような気がしてならないのである。

私は、紳助の誤算は、頭のキレを前面に押し出し過ぎたことと、「良い人」になってしまったことと、「一番」になってしまったことだと思っている。

私が好きだった頃の紳助は、勉強ができそうにないヤンキーキャラの向こう側に、鋭く光る頭のキレが潜んでいて、たけしやさんまにはない怪しさがあって、マニアックで、そして、いつも3番手とか4番手で虎視眈々としている―といった感じだったのだが、最近のジュニアは、その一番魅力的だった頃の紳助に非常によく似ていると思うのである。

私の分析によれば、ジュニアはまだまだいける。そして、3番手や4番手の位置まで登ったら、そこに根を下ろして、抜群の安定感を維持し続けてくれると思う。間違っても、紳助のように、頭のキレを前面に押し出したり、やたら綺麗ごとを並べて、涙を流して、良い人になろうとしたり、どさくさに紛れて一番になろうとしたりはしないと思う。いや、「しない」のではなく「できない」だろうと思う。

靖史がしっかり足を引っ張ってくれるだろうからである。


友人

週休二日は週休二日なんだけど、不定休なので、なかなか友人に会えないというのが、最近の私の悩みである。私という人間は、本当に、友人ありきなので。

普段、多くの人と接しているし、大いに喋ったり笑ったりしているので、休日にポツンと一人でも、さほど苦にはならないのだが、それにしたって、たまには友人としこたま酒を飲んで、馬鹿話に花を咲かせて、あちら側の世界へ行きたいと考えるのが人情である。

そんなこんなで、最近よく思うのは、友人と旅行へ行きたいなということである。
近場で結構。どこか海の見える所で、美味いもん食って、美味い酒を酌み交わしたい。

幸い、私の友人にも、まだ数人、独り身の奴らが残っているし、やれることはやれる間にやっとかなきゃなあと思う。

やれる間に。


ひとつ結実

現在の職場に就いて、介護職に復帰して、2ヶ月が経過したわけだが、職場に対しても、職業そのものに対しても、一切不満がないんだから万々歳だ。本当に本当に嬉しい。

疲れさえ嬉しく感じられるくらいに、日々の「働く」ということが充実している。その結果として、好循環が発生して、残る二本の柱―音楽と恋愛が、今までのように、日常の不満と、将来への不安から目を逸らす為のものではなくなるということが、本当に本当に本当に嬉しい。

ようやく、勝ちを見越した攻めの姿勢がとれそうだ。

ようやく、勝って得たものを末永く維持できそうだ。

ようやく、末永く維持したいと思えるものだけを勝ち取りたいと思える自分になれそうだ。

ようやく、全てが始まった!


涙の徳利

自分の中に、結婚願望的なものがあるのかを考えた時に想い浮かべる画はいつも、酔っ払いが空になった徳利を無心になって振っている姿である。

徳利がなぜ空なのか―それは、酔っ払いがなぜ酔っ払っているのかを考えればわかることである。


ナマケモノの生態

好きな人が好きだと言うものを、盲目的に、全力で好きになろうとすることって、人を好きになることの醍醐味だと思う。

「学習」という言葉があるけど、好きな人が好きだと言うものを、自分も好きになりたいと願ってする学習ほど、楽しくて幸せな学習ってあるだろうか。

この学習をしない人のことを、生粋の「怠け者」というのではなかろうか。

楽しいのに、幸せなことなのに、「学習」だからというだけの理由でやろうとしないんだから、怠け者としか言い様がないだろう。

学習せずに得ることのできる資格なんてない。