今日は我が奥さんの誕生日。
ケーキを贈った。
俺が今生きてるのは、彼女のおかげ。
ありがとう。
おめでとう。
めちゃくちゃ好き。
大好きだ。
私はFacebookという世にも稀なる純真な世界を大いに愛し、また、憂う者である。
私はFacebook上に公開されている記事の中にしばしばFacebookの記事として相応しいとは思えない記事を見つけて煩悶とする。FacebookはFacebook上で公開するに相応しい記事なのかそうでない記事なのかを判別する明確な基準を設け、公開する/しないの判断を厳格化すべきである。
私は寝食を忘れて熟考を重ね、遂にその「明確な基準」として機能するであろう「鍵」の存在に気付くに至った。「鍵」とはつまり一つのワードのことである。提案したい。
「せんせいあのね」である。
ユーザーが公開を希望している全ての文章の冒頭に「せんせいあのね」を添付し、「せんせいあのね」が違和感なく馴染んでいる文章なのかどうかを見るのである。馴染んでいればFacebookに載せる記事として相応しいから公開するが、馴染んでいなければ到底相応しいとは言えないので公開を見送る。このシステムを確立することができれば、Facebookは常にFacebookらしい純真を維持できるはずである。
Facebookというネヴァーランドの如き無垢な世界にあって、知性などというものは穢れた大人の屁理屈に他ならない。また、美しき絵文字の羅列に異を唱えるが如き文章力などというものも、Facebookの世界にあってはピーターパンの飛翔を妨げる足枷であり、下品な虚飾、まやかしに過ぎないから、「せんせいあのね」によってこれらを一つ残らず炙り出し、我等が愛すべきFacebookの世界から永久に追放すべきである。
ところで、私は不本意にも「奇人」或いは「変人」などと呼ばれている。また、非常に不誠実な男だとも言われている。なるほど、私には酒を酌み交わし、青き日々の恋を語らい、共に夜を明かすような友などただの一人もいないし、ごく稀に思い出したかのように誰かから「生きているのか?元気なのか?」といった内容の手紙が届いても、面倒なので返書をしたためた試しがない。だがしかし、それが何だというのだろう。私は孤独ではない。なぜなら、私にはFacebookに528人もの友がいるからである。
59歳 無職 ストコドコーイ
昨日の昼食時、職場でピザが振舞われた。「皆さんお疲れでしょうから」と、近所のドミノピザが無償で差し入れしてくれたのである。
食後、喫煙所で煙草を吸っていると、別の課に勤務する同僚がやって来た。
「和田さん、ピザ食べました?」
「食べましたよ」
「何枚食べました?」
「5枚食べました」
「おっ、少食な和田さんの割には仰山食べましたね。ピザ、好きなんですか?」
「好きです」
「そういえば、ロックスターってピザ好きなイメージありますもんね」
「そんなイメージはありません」
「え?ピザ食べながらギター弾いてるイメージありますよ」
「どこで見たんですか。ただのアホじゃないですか。ピザ食べるんならピザ食べる。ギター弾くんならギター弾く。どっちかにせえっちゅう話ですよ。手ぇベタベタなるし」
「でも、酒飲みながらギター弾く人とか、煙草吸いながらギター弾く人とかはおるわけでしょ?じゃ、ピザ食べながらというのも…」
「そんな奴はおらん!」
「和田さんだけですか?」
「なんでやねん!」
「ちょっとガッカリしました」
「すんません」
「すんません」の意味がわからない。
これまでにも何度か書いたように、俺は「ゆるく」という言葉が大嫌いだ。吐き気がする。たまにライブのMCで「ゆるくやってます」とか言う奴がいるけど、これを言ってしまった時点で彼は0点。爆発的にイラッときて、店を出て、灰皿のある場所へ行って頭を冷やす。
物事は常にやるかやらんかの二択だ。やるでもなくやらんでもない「ゆるく」などというたわけた選択肢はない。「ゆるく」などと言ってる奴に成し遂げられることなんて何一つない。成功も失敗もないんだからやらんのと一緒だ。
昨今、ゆるい国民に選ばれたゆるい人たちの一挙手一投足が目に余る。世の中がゆるい間は良いが、いざこういうことになるともう徹底的に駄目。俺にも…いや、子供にもわかるくらい駄目。やるでもなくやらんでもない、いつもののらりくらりが通用せず、何かせねばと慌てて打った手が海外からの失笑を買い占めたマスク2枚配布。馬鹿過ぎて痛い。最近の話だと、妊婦さんたちの為に特別にマスクを配布したは良いが不良品が続出。検品にかかる費用が8億円。もはや痛過ぎて何も感じない。
「検討します」と言って石橋を叩き倒しているうちに時間が流れて、やることなすこと後手後手に回っている。満を持して…みたいなことを言ってる場合か。何もかも遅過ぎる。マスクなんて、市場に出回り始めてからようやく届き始めた(俺のところにはまだ届いていない)。10万円給付だってようやく手続きが始まった。遅い。
あなたの周りにも「ゆるく」が口癖の奴がいたら気をつけた方が良い。そいつは何もせんぞ。したとしても執拗に失敗を恐れた腰の引け切った動きだから、形になるまでに異常に時間がかかる。時間がかかっても形になればまだ良いが、散々待たされた上に形にならなかった…というオチもそいつにとっては日常茶飯事。待たせた事に罪悪感なんて微塵も感じない。でも、それでもなお、そいつは「いい人」と呼ばれ続ける。いい人というのは、要するに当たり障りのない人。やるやらんだけではなく、好き嫌いすらはっきり言わないという姿勢を、時に人の期待を裏切ったり、人との約束を破ったりしても維持し続ける。で、それを皆、気持ち悪いくらいあっさり許してしまう。政治の世界も同じだろう。どうせ何も変わらない。今回、これだけグズグズでも、何も変わらないと思う。
大阪の府知事がものすごい勢いで支持されている。理由は「はっきりした物言いをする」から。つまり、「ゆるくない」から。だから、俺は好きだ。ああいう人。政府のやり方を評する時に「ポンコツ」という言葉のチョイスをするし、橋は渡るものであって叩いて遊ぶものではないことをよく知っているように思う。でも、周りの人たちが口を揃えて好きだと言っているのを聞くと腑に落ちないものがある。ホンマはああいう人のことが一番嫌いなんとちゃうんか?と思う。今だけ都合の良いこと言ってんじゃねえよ…と思ってしまう。
諸悪の根源はいつも「いい人」の間違った定義にある。
人が、あるタイミングから、ある特定の色を呼び寄せるようになることってあるのだろうか。そこに何か意味的なものってあるのだろうか。というのも、最近やたらと青いものを呼び寄せている自分に気付いたのである。
CDウォークマンが青。最近買った黒いリュックの内側が青。最近買った2枚のYシャツが青で、最近吸うようになった煙草の箱が青。青、青、青。いずれも意識して選んだわけではなく、気付いたら青かった。CDウォークマンはDr.からのサプライズプレゼントだったし、リュックはネットで内側の色を気にせずに買ったし、Yシャツは通勤に着ていく服として特別なこだわりなく買ったし、煙草は味と値段からいって他に選択肢がなかった。いくら暑いのが苦手だからといって、夏が近づくたびに青いものを選ぶというような習性も俺にはない。こじつけるわけじゃないが、「SURFBLUE」を書いたのがきっかけだったような気がしないこともない。いつも左手首にブルーサンドストーンという石でできた数珠(写真)を巻いているが、これは昔から巻いているから、今さらこの石の持つ力が云々という話でもなかろう。なんなんだろう。青は水をイメージする色だから、都合よく「流れが来ている」とでも読めば良いのだろうか。
考えてみれば、赤が好きで赤いものを色々と持っているところへ青が入ってきたんだから、いよいよもってユニオンジャックだ。
次は青い何がやって来るんだろう。
今まで音楽をやってきて、ライブハウスやライブバーからまともな評価を受けた記憶が一度もない。だから、俺の中でライブハウスやライブバーに対する愛情が乏しいのは仕方のないことだと思う。「良いねえ!」口から出任せなのは後の態度を見りゃわかる。良いと思うのならトリで出させろ。あれ?また前座扱い?それもくだらないのが4組も5組も出るイベントの?じゃ、ワンマンやらせろ。え?またあのコネだけで幅利かせてる井の中の蛙どもにやらせるの?ふ〜ん、死ねばいいのに💖
以前、バニーマツモロさんが日本橋の太陽と月で初のワンマンライブをされた。「うちでワンマンやらへん?」と店長に誘われて、「でも僕、客呼べませんから」と断ったところ、「そんなんどうでもええねん。俺が観たいんやから」と店長は言ったらしい。驚いた。本当に素晴らしいと思った。ライブハウスやライブバーを経営するのなら、欠かせない種類の心意気だと思う。自分のことのように感動した。そんな人っておるんや!と。でも、俺はそんな風に言ってもらったことなんてただの一度もない。
曲を作る。良い曲ができたという実感があればあるほど「どうせ誰にもわかりゃしないだろう」と思ってしまう悲しさがある。ステージに上がる時もどこかで「どうせ誰にもわかりゃしないだろう」と思っている自分がいる。いつまでこんな状況が続くんだろう…終わりが見えなくて不安になる。かといって、誰にでもわかるように噛み砕いてやるつもりは毛頭ない。噛み砕こうと思えば噛み砕けるし、噛み砕いたものを提供することもできるけど、ごく稀に噛み砕ける人たちがいるのを知ってるし、その人たちにとっては余計なお世話で、自分で噛み砕いてこその味だろうから、俺としては、噛み砕けない人たちが無理に噛み砕こうとしてまごついている「豚に真珠」を嘲笑って眺めながら、風向きが、季節が変わるのを待とうと思っている。
いじけ切ってしまうことを「腐る」と言う。腐る一歩手前で踏みとどまっている俺にとって、『WHY?』の再生回数が800を超えてきたというのはまさに希望の光だ。下がっていく顎を繰り返し持ち上げてもらっているような気がする。
ありがとう。真珠が腐ってどうする!だね。
ただいま!
今日までの一週間、Facebookの方で一日一冊好きな本を紹介する「ブックチャレンジ」というイベントに参加していたので、こちらを留守にすることが多くなっていた。俺を数珠繋ぎイベントに招いてくれる人なんていないと思っていたし、招いてくれた人がスペシャルな人だったので、意地でもやり遂げようと思って、やり遂げてきた。
Facebookに記事を書く時は「俺」ではなく「僕」を名乗っている。そのくらい徹底して謙虚でなくてはならないし、慎重過ぎるくらい慎重に言葉を選ばないといけない。ちょっとでも尖ったことを書こうものならすぐ引かれるので骨が折れる。
やっぱり我が家が一番だ!
世の中、大変なことになっている。いつになったら終わるのか…という思いがあって、その思いが強くなれば強くなるほど、終わりが見えてこない感じがある。
めちゃくちゃ楽しみにしていることがあって、日が経つのを指折り数えてその日が来るのを待っている時、他人は羨ましいとかなんとか言うけど、当の本人は結構辛かったりする。一日がなかなか終わらず悶々とする。「待つ」というのはそういうことだろう。
そもそも、「その日が来る」などという言い方をするけど、本当は、こっちがその日に向かって行くんだから、「その日が待つ」というのが正解だと思う。もし本当に「その日が来る」のなら、その日を待ち望んでいる人が死んだとしてもお構いなしにその日は来るんだろうけど、実際は、その人が死んだ時点でその日は来ないわけだから、その日はただそこにあるというだけの話で、能動的なのは常に人の方だと思う。
自粛。家にこもって「今日も何もできなかった」なんて嘆く人がいるけど、「何もできなかった」なんてことはあり得ない。たとえ一日じっと座って過ごしているように見えたとしても、本当はその日に向かって全力疾走している。
競歩って、普通に走るよりしんどいらしいけど、座りながら走るのはもっとしんどいことだと思う。
みんな、頑張っている。
⬆︎島はスロープとの付け根を軸に回転する仕組みになっており、スロープもまた、左右に可動する構造となっている。
職場の中庭に池があり、毎年この時期になると飛来する鴨の為に島を作るよう命じられた。
上司の許可を得、機械室に工房を構えて、ここ数日、一人黙々と製作に没頭していたのだが、昨日ようやく完成した。
今年に限って何故このような命が下ったのかというと、言わずもがな、昨今の閉塞感を少しでも和らげられたら…という意図がゆえ。
俺としては、島を作ること自体が癒しそのものだった。結果は後からついてくると言うが、「後からでは困る」と無茶なことを言いながら結果を手繰り寄せて、過程との間にある時差を力技で埋めていくような感覚が曲を作っている時と同じで、夢があって、実に楽しかった。
「好きなことを仕事にすべきではない」などと言う人があるがそんなことはない。やはり、好きなことを仕事にすべきである。なぜなら、好きだという気持ちはそれ自体が既に結果のようなものだからで、今回のことに関して言えば、鴨がやって来て、俺が作った島の上で皆に癒しを提供することになるのは驚くに値しない必然なのである。
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ライブが祭りなら、ブログはコンビニ。祭りは年がら年中やるもんじゃない。たまにやるから良い。一方、コンビニは年中無休。いつ行っても開いていて、絶えず新しい商品が到着し、店頭に並ぶというのが売り。だから、ブログは、やる以上は、書き続けなきゃいけない。たまに、いつまで経っても更新されないブログを見掛けるが、あんなのはコンビニとして失格だ。いつまで経っても新しい商品の並ばないコンビニなんてコンビニじゃない。そのうち誰も来なくなる。客商売をナメちゃいけない。
客商売は信用の上に成り立っている。当店、コンビニエンス一憩合格はオープンして今年で9年になるが、一度も新商品の入荷、陳列を滞らせたことがない為、お客様からの厚い信用を得ている。
ブログでライブ告知をするというのは、コンビニに祭りのチラシを貼り出すようなもの。閑古鳥の鳴く店に貼り出しても意味がない。繁盛している店に貼り出してこそ意味がある。だからこそ、日頃の営業努力が問われるのであるが、昨今、祭りは自粛せねばならない。祭りは自粛せねばならないが、店を閉めるわけにはいかない。世の中のコンビニ需要は高まる一方なのだから、私としてもこれまで以上に使命感に燃え、営業努力にこれ、努めて参る所存です。
一憩合格店長 和田怜士