コメントへの返信〜KNIGHT様宛

人は恋をすると馬鹿になると聞きます。なので、元々馬鹿な人間が恋をした場合には効果が反転して賢くなるんじゃないか?と思っていたんですが、どうやら、残念ながら、さらに馬鹿になるだけみたいです。

それにしても、「宝物」っていい言葉ですね。本当にいい言葉です。純度の高い、素晴らしい言葉です。

「彼女は宝物」かあ…。

寝てしまいそうです。


コメントへの返信〜故郷の忘れ者様宛

彼女が素っぴんだから、私も素っぴんでいられるんだと思います。だいたい、好きな食べ物が唐揚げって、これを「素っぴん」と言わずして何と言いましょう。コロッケが好きだと言う人以上に素っぴんです。
先日もローソンで、からあげくん赤を購入して喜んでおりました。

私の彼女はクイーン・オブ・素っぴんです。


我輩は素っぴんである

私みたいな者でも、過去に僅かながら「恋愛経験」と呼べるものはあるのだが、考えてみれば、過去の恋愛は全て、私のもう一つの人格―ものつくりとしての自分―がものを言ってきたのである。
もし私に、ものつくりとしての顔がなくて、常時ただの和田一憩だったとしたら、私は今だに、一度たりとも、恋愛というものを経験していなかったと思う。

過去の恋愛は、言うなれば、まず茘詩(クリエイティブな私)を前面に押し出して、茘詩を気に入ってもらって、そこから徐々に時間をかけて一憩(素の私)の顔を覗かせていくというものであって、私にとって、この、まるで自らの化けの皮を恐る恐る剥いでいくかのような過程は、いつもかなりの不安を伴うものだったのである。

が、どうやら、今回の恋愛、彼女は今までの恋愛、彼女とは全然違うようである。
今の彼女が見ているのはあくまで一憩であって、茘詩ではない。今の彼女は、私のものつくりとしての顔―茘詩がよくわからないらしい…って言うかあまり興味がないらしい。
私が今まで関わってきた女の人というのは、茘詩に興味はあっても、一憩に興味はないという女の人がほとんどだったのだが、今回ばかりはどうやら違うらしいのである。

ものつくりがものつくりであることを売りにできないというのは、ある意味、美人が美人であることを売りにできないということと同じで、結構不安なのだが、でも、本当は、これって、めちゃくちゃ幸せなことなのかもしれないな…と思っている。

「素っぴんじゃ彼氏に会えないっ!」が口癖だった女の子が、胸を張って、素っぴんで、彼氏に会いに行く姿を想像していただきたい。その姿が、今の私なのである。


コメントへの返信〜モノノケ様宛

対個人であれ、対社会であれ、「相手にしない」って難しいことです。同様に「聞く耳を持たない」ってのも難しい。言うのは簡単だけど、実際にやるとなるとめちゃくちゃ難しい。
現に相手は目の前にいて、無下に無視するわけにもいかないし、「聞く耳を持たない」ったって、聞こえるものは聞こえるし、それはたとえ耳を引きちぎったとしても同じこと… ってゴッホじゃないんだから。

結論から言うと、諦めさせたら勝ちかなと思っています。「こいつには何を言っても無駄だ」って諦めさせる。

昔、野村克也が現役のキャッチャーだった頃、試合中によくバッターに話しかけたらしいんですね。バッターボックスにやって来た選手に「お前、昨日のあの女誰やねん」とか何とか囁きかけて動揺させる。心理的に揺さぶりをかけるわけです。で、この心理作戦、結構成功したみたいなんですが、王貞治と長嶋茂雄にだけは全く通用しなかったらしいです。貞治は何を言っても完無視するし、茂雄は一応全部受け答えはするんだけれども、ピッチャーがボールを投げるや否や完全に頭が切り替わって、まるでさっきまでの会話がなかったかのような顔をしてスコーン!とボールを打ち返したらしいです。で、さすがの克也も、貞治と茂雄に関しては「諦めた」んだそうです。

というわけで、克也の魔の囁きを、個に対する社会的な圧力に例えてみました。
私は貞治や茂雄のように諦めさせたいと考えております。とはいえ、私には完無視などできそうにもないから、茂雄の諦めさせ方ができたら最高かな、と。

日々、学習です。


結集する自我

もういい加減、自分をとことん信じ抜いてやろうと思う。でないと、跳ね返せるものも跳ね返せないようだ。

自分の目を信じる。
自分の耳を信じる。
自分の判断を信じる。
あらゆる経験から、自分がちゃんと学んでこれたことを信じて、自分の耳元で「疑え」と囁く下品な人間のことをのみ疑う。

私はもう、疑ってかからねばならんようなものを知らず知らずの内に呼び寄せるほど馬鹿ではない!


杭の勝算

社会って威圧的だ。

「出る杭は打たれる」という言葉に於いて、打たれているのは「個」で、打っているのは個から成る全体、要するに社会だ。

社会って威圧的だ。でも、はっきり言って烏合の衆だ。

主義主張がバラバラで「統制」が取れず、お互いがお互いの顔色を窺いながら裏切り裏切られ…みたいな烏合の衆が、一つの杭を的確に打てるのかどうか、大いに疑問だ。

出る杭―凛として出てりゃ、ひょっとしたらただそれだけのことで、勝てるんじゃねえのか?


笑顔の裏側

本当に優しい人の辞書には「自己犠牲」なんて文字はないだろうと思う。

あなたが親しくしているその人は、本当に優しい人ですか?『優しい人』を演じるのが上手いだけ―という可能性は考えられませんか?「やりたいからやってる」ではなく「やったってる」という、押し付けがましい自己犠牲の雰囲気を漂わせてはいませんか?もし少しでも漂ってるようなら、気をつけた方が良いですよ。後で恩着せがましい言葉をまくし立てられて、決して安くはない代償を支払わされますよ。あなたはただ、知らず知らずのうちに、その人に対して、借金のようなものを積み重ねていってるだけなのかもしれませんよ。

その笑顔に気をつけて!


気まぐれなものへの対処法

風というのは実に気まぐれなものだ。追い風がずっと続くわけじゃないし、かといって逆風がずっと続くわけでもない。逆風の方がインパクトがあって、記憶に残りやすいけど、落ち着いてよくよく考えてみれば、追い風だって逆風と同じくらいの頻度で吹いてるんだから、風ってそのくらい気まぐれなものなんだから、ちょっとやそっとの逆風はさらっと受け流してやるが吉。

逆風の時、以前の私であれば立ち止まることを良しとしたが、最近の私は、さらに前進することを良しとしている。