ユダを憐れむ歌〈後編〉

ナメられてきた―ということに気付いた瞬間から、私の中の、怒りの感情を瞬時にして圧し殺してきた機能が全く作動しなくなった。あれだけ俊敏かつ的確だったものが、ある日突然、うんともすんとも言わなくなった。

トンネルを抜けて、最初は光が目に痛くて、一瞬目を閉じて、ゆっくりと目を開けていくと、今まで見たことのない光景が広がっていた。実際は、光景自体は何も変わっていないのだが、私の「目」が、以前とは似ても似つかぬほどに変わっていて、それに伴って、当然ながら、見え方が、捉え方が劇的に変わったようだ。

考えられないくらい、イライラする。

あれもこれも腹立たしい。

どいつもこいつも死ねばいいのに…と思う。

自分の中で、自分の中のキリストが死んだのかな、死につつあるのかな…と思う。でも、こんなのじゃまだまだ甘くて、まだまだ殺さなきゃいけないなと思う。完全に息の根を止めるまでは、力を抜けないなと思う。

私の中のキリストが死にさえすれば、私はもう、無駄に人を許さなくて済むし、「ヘタレ」呼ばわりされて、ナメられることもなくなる。

私はもう、本当に、ナメられたくない。完全にナメられ飽きた。
「一憩みたいなもんは、黙ってムスっとしてりゃ意のままだ」とか、「怒鳴り散らしゃ言うことを聞くだろう」なんて思っているような奴は、男に限らず、女にだって容赦しない。必要とあらば手だって上げる。余裕で上げる。そうしなきゃ黙らないんだったら、そうするまでだと、今は本気で思っている。感受性に乏しい、最低な人間に、語彙乏しく、「最低!」と叫ばせるのは愉快だ。なんとでも言やあいい。

座右の銘―「攻撃は最大の防御なり」
もう、一歩も引かない。もう二度と、ナメた口は利かせない。

頭が燃えるように熱い今日この頃。

ユダへ。


ユダを憐れむ歌〈前編〉

私の両親は、今も昔も、無宗教です。
キリスト教徒でも仏教徒でもないし、霊友会の信者でもなければ、創価学会の信者でもありません。が、父親がミケランジェロや、ダ・ヴィンチを敬愛する画家で、聖書に精通していた為に、父親にはキリスト教の考え方が根深く息づいており、それはそのまま我が家全体の思想の軸的なものとなって、当然ながら、私の人格形成にも大きな影響を及ぼしました。

子供の頃には、『ベンハー』や、『キング・オブ・キングス』といった、キリスト関連の映画を数多く観たし、高校の時には、自分の聖書を手に入れて読んで、気になった言葉には赤鉛筆で線を引くなどして、結構熱心に学習染みたことまでしていました。また、数ヶ月前、精神的におかしなことになって、社会的に離脱していた時には、伊丹の中心部にある教会まで、聖書をもらいに行ったことさえありました。ま、その時、教会には誰もおらず、門は開きませんでしたが…。

「汝、汝の敵を愛せ」

「右の頬を打たれたならば、左の頬を差し出せ」

「人が人を試してはならない」

「ランプが机の下に置かれることはない」

「信じる者は救われる」

私はキリスト教的な考え方を引き摺りながら生きてきました。上に並べたような言葉の数々を、ひそかに大切にして生きてきました。
「誰も見ていなくても、神様が見ている」ことをずっと信じて生きてきました。
本当に強い人間は「許す」ことのできる人間で、感情にまかせて声を荒げたりする人間のことじゃない―そう頑なに信じて、信じきって、疑おうとしたことなど、ただの一度もありませんでした。そうして、その結果…。

私が最近になってようやく気付いたことは、今まで、ただただ「ナメられてきた」ということです。私は本当に、ずっとずっと、ありとあらゆる人に、ナメられてきたようです。

「許す」ことを最優先にして、それが本当に強い人間の姿だと信じて、「怒」の感情を見境無く圧し殺して、衝突を避け続けてきたことが、結局は、「ヘタレ」の烙印を押されることにしかならなかった。

例えば、酒に酔った人間同士の流れで、ある不貞を働きかけた女性が、もとはと言えば自分のせいでもあるということを本当は自覚しているくせに、自覚しているからこそ、一度は私に土下座をして謝りもしたくせに、結局はそれを認めるのが癪で、ある日突然、全てを、私のせいにした。全てを、私が「怒らなかった」ことのせいにした。

「あの時、なんで(あの男を)怒ってくれへんかったん!」

私にとっては、考えられない発想であり、信じられない責任転嫁だった。私は、自分が許したことの意味を、何度も何度も繰り返し説明したが、彼女は納得してくれなかった。許してくれなかった。そして、私は、彼女に、謝った。果てしなく不本意に、謝った。これは、私にとっては、左の頬を差し出したのと同じ意味合いだったが、不意に救いを乞うて頭上を見上げると、そこでは、キリストが口笛を吹いて、見ざる聞かざるを極め込んでいるし、目の前の彼女は、その日以降、私のことを「ヘタレである」と断定することによって、我がの罪をうやむやにして、気づけば全てが、何故か、私のせいになっていた…。

これはただの一例に過ぎない。例なんて、数え上げたらキリがない。

私は本当に、ずっとずっと、ナメられてきた。


怒りを通り越した悲しみ…みたいな音楽がやりたい。

一人であれば、一人でアコギ一本持ってステージに上がるのであれば、今すぐにでもそれをやって見せる自信はあるけれども、そうじゃなくて、あくまでバンドで、「怒りを通り越した悲しみ」を表現したい。

中途半端な奴が一人でもいたら駄目だ。


変わらない

自分発信―自分が、自分の言葉を、自分から発することって、そんなに難しいことですか?仮名を使える状況下に於いてもなお、難しいことですか?
もし、相手に聞く耳がないのなら、わからないでもない…っていうか、痛いくらいよくわかりますけども、私は、あなたの話を、ちゃんと聞きますよ。

私には、反抗期というものがありませんでした。親や教師に対する怒りは、皆無と言って良い程に感じませんでした。が、やはり、あの時期、自分の中に爆発的な怒りがあったというのは確かで、その怒りの矛先はいつも、同級生達に向いていました。

教師「何か意見ある者は?」
生徒「…」

黙って何も言わず、「紙に書け」と言われても何も書かず、授業が終わり、教師が教室から立ち去ってから待ってましたとばかり、自分の意見をカッコつけてボソボソと延べ始める同級生と、その言葉に責任を持たせるようにして、「ホンマや!ホンマや!」などと言っている同級生達が大嫌いでした。

昔、「村八分」というバンドがいて、このバンドのライブ盤の中のやり取りにこんなのがあります。ウ゛ォーカルの「チャー坊」と、客のやり取りです。

チャー坊「音、大きいですか?」
客「…」
チャー坊「…なんもよう言わんねんな…ごめん。」


斜呉箱から豚〜独眼流久宗様宛

そのようにシビアな問題の相談相手として、私のような社会的に地に足の着かない、夢の波間を漂泊し続けておるような人間を選んでいただいた事に、心から感謝いたします。
これは非常に名誉なことだと捉えて、半ば自分自身の事だと思って、私なりに熟考に熟考を重ねた結果を書いてみたいと思います。少しでも参考になれば、幸いです。

〈1〉「軸」を、一本とは言わず、二本持ってみてはいかがでしょうか。

〈2〉軸を一本、極めて明確でズ太いビジョンを一本持って前進するというのは、一見能率的なように見えて、実は結構危険が伴うんじゃないかと思います。頭の中から「遊び」の部分を完全に排除して、特攻隊のような姿勢の下に動くというのは、逆に言えば、軸に縛られて、身動きがとれなくなってしまうんじゃないかと思います。

〈3〉例えば、棒線グラフというものは、横の「X軸」と、縦の「Y軸」の重なり合う点を線で結んで成り立っておりますが、あれと同じ要領で、自分の中で、二つの軸を設定して、その二つの軸が重なり合う点を結んでいって、その線上を素直に、真っ直ぐ歩いてみる―というのはどうでしょうか。

〈4〉「転職」という課題で言えば、X軸に持ってくるべきはやはり、「転職を思い立った最大の理由」ということになるだろうと思います。それは例えば、「もう少し給料の良い職に就きたい」であったり、「泣く子も黙る一流企業に勤めたい」であったりするんだろうと思いますが、「人間関係の平穏な職場に就きたい」というのは、あえて、このX軸には持って来ない方が良いかと思います。なぜなら、それは、新たな恋の相手を探す際に、「セックスの巧い女がいい」と言っているようなもので、実際にそこに入り込んでみないとわからないことだからです。

〈5〉次に、Y軸に持ってくるテーマですが、これは、「自分の『売り』は何なのか」ということになると思います。要するに、「自信」のことです。「勝負」というのはやはり、自信ありきだと思います。自信がないと勝負にならない。自分の売りは何なのか―これを出来る限り正確に把握することは、何をするにせよ、めちゃくちゃに大切なことだと思いますし、ここのところを誤解しているがゆえに、人生において大いに苦戦している人というのが、意外と多いように思われます。

〈6〉「遊び」の入り込む余地のない、抜き差しならぬ二つの点をとりあえず固定するところから始めるというのは、要するに、服を購入する際に、サイズと価格に着目するところから入って、デザインを後回しにするようなもので、逆に言えば、遊びと、楽しみが、しっかりと最後の醍醐味として残るということです。

〈7〉というわけで、とりあえず、二本の軸を設定してみてはいかがでしょうか。「軸=一本」という概念をある意味捨てて、二本、設定してみてはいかがでしょうか。そして、その二本の軸が重なり合う点を「星」と見立てて、信じてみてはいかがでしょうか。いかんせん「星」なので、刻一刻、微妙にその位置は移ろっていきますが、それは、ね、人間だもの。当然と言えば当然で、自然と言えば自然です。一本の軸に縛られて、意固地になって、身動きがとれなくなるよりは、ずっと良いかと思います。

〈あとがき〉相変わらずイメージ優先の考え方、文章でごめんなさい。これでも真面目に考えて、言葉を選んで書いたつもりです。やっぱり私には荷が重かったかな…。


斜呉箱から猫〜須磨ですまんの〜様宛

『しゃくれつぶやき』とてもオシャレなタイトルでの投函、感謝いたします。

私は化粧を否定しないどころか、素っぴんよりも化粧をした顔の方が好きな、化粧肯定派の斬り込み隊長とも言える男ですが、それでも、電車の中で化粧をする女は大嫌いです。電車の中の不快ということで言えば、周りの迷惑を微塵も省みず、白痴のように涎を垂らし奇声を上げ、喚き散らしている微塵も可愛くないガキとその親に次いで嫌いです。

化粧というのは、いわゆる一種の「変身」でしょう。変身は、基本的にその過程を人目に晒すものではないと思います。例えば、「劇的ビフォーアフター」という番組がありますが、あれは変身していくのが家だから見ていて楽しいのであって、もしあれが美容整形に於けるビフォーアフターであったなら、そして、その変身過程を詳細に撮影し、放送する番組であったなら、これはもう完全にR指定、決して電波に乗せることを許されない、めちゃくちゃにグロテスクな映像になると思われます。変身の過程とは、本来そんなものでしょう。
映画『ザ・フライ』に於いて、主人公と蝿が合体していくシーンは目を覆いたくなる程に気持ち悪かったし、仮面ライダーは、「変身!」と叫んで跳んで、着地した時にはもう変身が完了しておりますが、「変身!」と叫んでから、変身し終わって着地するまでの間の画は、たぶん、見るに耐えないと思います。したがって、電車の中で化粧をするという行為は、非常にグロテスクな状態にあるものを公衆の面前に晒して悦んでおるということなので、そんな極道な変態女には飛び蹴りの一発や二発、喰らわせてやっても決して罰は当たらないだろうと思いますがしかし、もし、その極道変態女が流れるような長い黒髪の持ち主で、唇が常に濡れているように見える口紅を使用していて、さらに、紫色のアイラインが似合うような感じであった場合には、そ〜れは、ね、流石の私も、ね、許さないわけにはいかないんじゃないかなあ〜なんてことを思っ

ご清聴ありがとうございました。


読者各位

コメントを寄せていただくのは本当に、本当に本当に嬉しいし、楽しいのですが、「匿名」だけは止していただけないでしょうか…。
今現在も、『そういえば…』と、『斜呉箱から鳩』に匿名名義でコメントを寄せていただいていて、返信したいのは山々なのですが、同一人物なのか、別人なのかがよくわからない上に、他の読者の方々にも、私の返信がどの匿名様へ宛てたものなのかがさっぱりわからないと思うので…。

出鱈目でも全然構わないので、何かしら名前を考えて、添えて、コメントしていただけたら助かります。

よろしくお願いいたします。


コメントへの返信〜 匿名様宛

ものすごく重い…ですね。
冒頭の文章だけでは、匿名さんの身に何が起こったのかを詳しく察することができないので、結論の部分を読ませていただいて、個人的に考えたことを簡単に述べさせていただきます。ただの独り言と言えばただの独り言なので、軽く受け流してください。

まず私は、好きに自由に生きるにせよ、好きに自由に生きないにせよ、「生きる」ということ自体がもう既にめちゃくちゃに難しいことだと思っています。「好きに自由に生きることは難しい」この文章を逆さまにすると、「好きに自由に生きなければた易い」となりますが、これはどう考えても違うと思うからです。生き方に関係なく、生きること自体が難しいのなら、好きに自由に生きる方向で苦労する方が、まだ納得がいくというものだ―と私は考えています。そして、トラウマを克服したり、壁を乗り越えたりする為には、ある程度の「自暴自棄」が有効だと思っています。悩みに悩んで、悩み抜いたなれの果ての軽い発狂、自暴自棄は、一種のパワーだと思っています。

かく言う私が、最近、自暴自棄です。快活に自暴自棄です。自暴自棄って、悪くないと思っています。自暴自棄にならないとできないこともあると思っています。

以上、『自暴自棄のススメ』でした。「馬っ鹿だねぇこいつぁ〜!」と、額を叩きながら咄家調に言って笑って、少しでも元気を出して戴けたら幸いです。


コメントへの返信〜めぐみ様宛

「癇虫乳吐き弱ったな…。」それは、一番です。一番の歌詞です。私が挙げたのは、二番の歌詞で、全体の歌詞は以下のようになっております。

赤ちゃんプレイで困ったな

完無視父吐き弱ったな

here…

here…

here… No!

開き睾丸

歌っていたのは確か、桂三枝だったと思います。


斜呉箱から鳩〜故郷の忘れ者様宛

早速の投函、感謝いたします!

結論から言うと、まったくもって、その通りだと思います。やりたいようにやって、生きたいように生きて、それが正解だと思います。人生が一回きりだということを思えば、他に答えは出ないと思います。

あと、諺や慣用句などというものは、常に矛盾に満ちていて、相田みつを的に、「言うたもん勝ち」の世界なので、「昔の人間もアホだった」ということを今に伝えるものでしかないと思います。考えてもみてください。「イヤよイヤよも好きのうち」などという支離滅裂な言葉がまかり通るのであれば、他に何とでも言えるでしょう。
イヤよイヤよも好きのうち―この言葉に裏切られ、泣かされた人間のいかに多いことか…まことに、諺というものは罪なもので、数え切れない程の被害者を日々、「悪気はなかった」などと嘯きつつ量産しておきながら、その責任を一切取らないのです。
だいたい、古人のボケどもは、「三」という数字に固執し過ぎです。「三度目の正直」「二度あることは三度ある」「石の上にも三年」「仏の顔も三度まで」「三日坊主」「桂三枝」と、「三」さえ出せば何とかなるだろうというこの浅ましさは一体何なんでしょう。「人間だもの」さえ出せば何とかなるだろうというあの浅ましさは一体何なんでしょう。

一回きりの人生なんだから、他人のアホな言葉なんて相手にしている余裕はございませんし、ましてや、遠の昔にこの世を去った、どこの馬の骨だかわからない人間の言葉なんて、無視する以外にないでしょう。ほら、昔のCMソングにこんなのがあったでしょ?

♪完無視父吐き弱ったな…。