ユダを憐れむ歌〈後編〉

ナメられてきた―ということに気付いた瞬間から、私の中の、怒りの感情を瞬時にして圧し殺してきた機能が全く作動しなくなった。あれだけ俊敏かつ的確だったものが、ある日突然、うんともすんとも言わなくなった。

トンネルを抜けて、最初は光が目に痛くて、一瞬目を閉じて、ゆっくりと目を開けていくと、今まで見たことのない光景が広がっていた。実際は、光景自体は何も変わっていないのだが、私の「目」が、以前とは似ても似つかぬほどに変わっていて、それに伴って、当然ながら、見え方が、捉え方が劇的に変わったようだ。

考えられないくらい、イライラする。

あれもこれも腹立たしい。

どいつもこいつも死ねばいいのに…と思う。

自分の中で、自分の中のキリストが死んだのかな、死につつあるのかな…と思う。でも、こんなのじゃまだまだ甘くて、まだまだ殺さなきゃいけないなと思う。完全に息の根を止めるまでは、力を抜けないなと思う。

私の中のキリストが死にさえすれば、私はもう、無駄に人を許さなくて済むし、「ヘタレ」呼ばわりされて、ナメられることもなくなる。

私はもう、本当に、ナメられたくない。完全にナメられ飽きた。
「一憩みたいなもんは、黙ってムスっとしてりゃ意のままだ」とか、「怒鳴り散らしゃ言うことを聞くだろう」なんて思っているような奴は、男に限らず、女にだって容赦しない。必要とあらば手だって上げる。余裕で上げる。そうしなきゃ黙らないんだったら、そうするまでだと、今は本気で思っている。感受性に乏しい、最低な人間に、語彙乏しく、「最低!」と叫ばせるのは愉快だ。なんとでも言やあいい。

座右の銘―「攻撃は最大の防御なり」
もう、一歩も引かない。もう二度と、ナメた口は利かせない。

頭が燃えるように熱い今日この頃。

ユダへ。


1件のコメント

  1. 間違た言葉を。ヘタレなどと言葉を、受け入れないで下さい。
    相手の怒は、自分自身の弱みだからこそ、貴方への妬みです。戦友よ自分自身の闘いです。相手への怒りは、自分を傷つけます。自分の弱さを知るからです。

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