『waterfall』解説

曲は俺と同じような立場で音楽やってる人たちに対する憤りの塊で、彼らのことを吐き気がするほど嫌いな2つの曲、岡本真夜の「TOMORROW」と槇原敬之の「世界に一つだけの花」に登場する花になぞらえて歌っている。「ナンバーワンこそオンリーワン」のくだりは、俺と同じように「世界に一つだけの花」の歌詞に違和感を覚えるというイチローの発言から引用した。

音には初の試みとして全体的にエフェクトを効かせてある。使用したのはフランジャーというエフェクターで、寄せては返すジェット音みたいな効果がある。しつこくならないように注意して、薄くしかかけていないが、ギターを歪ませると同時に適度に効果が強まるという予期せぬ現象がこの映像のサイケデリック感に繋がった。

特筆すべきはなんと言っても映像全体を覆うサイケデリックな模様。これを見て「おお!遂に怜士もデジタルを駆使するようになったか!」と思われた方もあるかもしれないがさにあらず。んなわけがない。デジタルは俺にも使いこなせる範囲で道具として扱っただけで、根幹を成すのはやはりアナログ人間の工夫である。では、このサイケデリックな模様の正体は一体何なのか。明かすとしよう。コレである。

そう、俺が描いたイラスト『仮面』。これを8%の薄さにまで透かしたものを5枚用意して、不規則な向きで重ね合わせたものを映像に貼り付けたのである。我ながら秀逸なアイデア。「もっと良くなるはずだ」という希望的観測を実際に良くなるまで諦めなかったことの成果と言える。

もう一つ、特筆すべき点は俺の表情。完全に無意識なのだが、「くたばれ世界で一つだけの花」(韻を踏みたい気持ちが昂じて「世界に」ではなく「世界で」となっている)のところでニヤッと薄ら笑いを浮かべている。

だから言ったろ?「悪魔と呼んで」って。


変態の刑

変態。本来の意味は、おたまじゃくしがカエルになったり、芋虫が蝶になったりすることを言う。

カエルや蝶が自らの力で変態するのに対して、俺は我が奥さんの手によって変態した。

「興味ないね」みたいな顔をしつつ、「髪の毛は赤でお願いします」とちゃっかり注文を付けている自分がいた。

待ち受けにいかが?

 


希望的観測気象台

ネット上でサポートメンバーの募集を開始してから2ヶ月近くが経過した。

今のところ、募集記事の閲覧回数が350。実際に連絡があったのが2件。うち一件は30代のベーシストで、1曲分だけ動画を見たが、なるほど、腕に覚えありといった感じ。もう一件は非常に若い子たちで既にバンドの形態を成しているが、まだ連絡を取り合い始めたばかりで、映像や音源は確認できていない。いずれも募集を開始してから1ヶ月が経過して以降の反応だったし、閲覧してくれている人たちの顔触れや傾向が徐々に変わってきており、少しずつではあるが俺寄りになってきているので、今後も根気強く朗報を待ち続けようと思っている。

引き続きソロでの活動を軸にしていくつもりではあるが、並行して、何か違ったことがしたいという気持ちが芽生えてきた。静かに、刺激を求めている。そこへ、季節変わりを知らせる風のようなものが微弱ながら吹いて来ているように感じる今日この頃。

雲が流れていく。

 


精悍なる諦観

かなり早い決断ではあるが、10月のイベントへの出演も取りやめることにした。

基本的に、ライブって無理矢理やるもんじゃないと思っている。で、10月の出演について俺の中に無理矢理感がないと言えば嘘になる。今、無理にライブをやると、観に来てくれる人たちにも無理を強いてしまうことになる。これは違う。違うと言い切れる。だから、早々に決断した。

頭を切り替えて、照準を12月一点に絞る。12月を念頭に置いて曲作りに励む。エフェクターの勉強もしたい。万が一、12月のライブも流れて、今年は一本もライブができなかった…ということになったとしても、ここで作った曲や知識が今後に活きる。

晴耕雨読。ライブができないだけの話で音楽ができないわけではない。

前向きにいこう。


幻のセットリスト

と、こんな感じでやるつもりだった。

「ストーカー 」をやるか「バンドマン・ロック」をやるかは、お客さんの反応を見て決めようと思っていた。それから、ベスト盤からの選曲を軸にしつつ、約20年振りに「クリスティン」をやるつもりでいた。

8月の気分と10月の気分が同じだなんてことはありえない。10月は10月で、10月の気分に沿ったセットリストで臨む。


フィナーレを残して

以前にも書いたように、故郷は故郷、一生戻ってこないというわけではなく、いずれまた戻って来たいと考えてはいるが、ひとまず10月と12月のライブで伊丹での活動に幕を下ろすことにする。2018年以降、伊丹を軸に活動してきたが、思うような評価を得られず、全くと言って良いほど状況が変わらなかった。今後に期待できるものもない。見切りを付けねば。

本当は8月10月12月と毎回セットリストを総入れ替えしながら30曲近くやって「ほなさいなら!」といきたいところだったのだが、8月が流れて、10月と12月も両方できる可能性はかなり低いと見ている。3回ともできなかったら…ま、それはさすがにないと思うけど、万が一そうなったらそれはもう仕方ない。よほど縁がなかったんだと思って綺麗さっぱり諦める。

本音を言えば、そりゃ、やりたい。1回だけでもいいからやりたい。伊丹が俺をつまみ出すんじゃなくて、俺が伊丹を見限ったんだと感じてもらえるような完璧なライブをやって「ほなさいなら!」といきたい。

糠に釘。糠に釘。糠に釘。イライラし疲れたよ…。


気の毒な人たちへ

どいつもこいつも薬は薬で毒は毒だと思っている。薬が毒になることもあるし、毒が薬になることもあるということを知らない。で、音楽は薬だと思っている。毒になることのない薬だと思い込んでいる。言っておくが、毒にならない薬などないし、薬まみれのライブイベントが毒の塊だってことくらい、一度でもライブバーやなんかに足を運んだことのある人なら分かるだろう。

みなまで言うな。分かっている。俺は毒で、俺の作る音楽もまた毒だ。何が悪い。って言うか、俺としてはその役を喜んで買って出ている。毒をもって毒を制す。薬で治らないものを治す。カッコええやん。それが俺の役目。あまりの需要のなさに辟易こそすれ、ブレることなくここにいる。数多の拒絶反応をパワーに換えて。

ところで訊くが、ワクチンは薬なのか?

めっちゃ熱出てるけど大丈夫?

それって拒絶反応やん。

 


黙って本でも読んでろ

甲本ヒロト。音楽はさほど好きじゃない。一音に一語という言葉の乗せ方が生理的に苦手だからである。例外として、ハイロウズ時代の『バームクーヘン』というアルバムは大好きで、死ぬほど聴いたし名盤だと思っているが、他のアルバムには興味がない。が、しかし。しかしである。

恐ろしく頭の良い人だと思っている。一言で真相を射抜いて絶対に外さない、稀有な才能の持ち主だと思っている。そんな彼の発言に以下のようなものがある。

「日本人は音楽を歌詞で聴き過ぎ」

同感。本当にその通りだと思う。たまに、人から良い日本人アーティストがいるから聴いてみてと言われて聴くことがあるがいつもピンと来ない。何故か。俺が真っ先に聴くのはメロディーであって歌詞ではないからである。日本人のほとんどが、歌詞=メロディーだと思っている。歌詞とメロディーを分けて聴くことができない。もっと言えば、音についても歌詞を経由しないと感じ取ることができない。でも、それはあくまで歌詞。歌詞から醸し出されたメロディーと音であって、実際に鳴っているメロディーと音ではない。

歌詞とメロディーと音は本来それぞれが独立しているもので、独立しているもの同士が主張し合って拮抗した時に初めて良い曲と言えるのではないだろうか(ある意味、バンドに似ている)。そして、独立しているものが組み合わさって成り立っているということは、どれか一つを抜いて捉えることもできるということで、歌詞がメロディーと音、全ての役割を担っている曲から歌詞を抜いたらどうなるのかはご想像にお任せするが、俺が人から勧められた日本人アーティストの曲にピンと来ない理由はまさにそれで、歌詞ありきな音楽の聴き方をする人が良いと言って勧めてきた歌詞ありきな音楽から真っ先に歌詞を抜いてしまうからである。

歌詞とメロディーと音。あえて優先順位を付けろと言われたら、俺はメロディー、音、歌詞の順だと答える。言葉が大事なのはよく分かっている。そんなもの、俺が作る曲を聴きゃ分かるだろう。でも、音楽だ。「ベートーベンの音楽をどう思いますか?」と訊かれたリンゴスターが「いいね。特に歌詞が」と答えていたが、そう、クラシックに歌詞があるか?メロディーと音がなければ成立しないが、歌詞がなくても成立する。それが音楽。

メロディーや音よりも歌詞を優先して作りたいのなら物書きになれば良いし、そういったアーティストの作品が好きだと言うのならわざわざ音楽なんて聴かずに本を読めば良いと思う。


苦渋の決断

今月8日のライブ。残念ながら出演を見合わせることにした。

関西でも感染者が増える一方で…当ブログの読者の皆さんならよくご存知だと思うが、俺、準備万端、やる気満々だった。でも、仕方ない。

仕方ない…としか言いようがない。