不謹慎記事

⬆︎最も神を語る資格のない男。

活断層の上にあり、時季になれば台風にも見舞われる。そんな国で「不謹慎」という言葉を無駄にでしゃばらせてしまうと何もできなくなる。笑いも芸術もスポーツも事あるごとに立ち止まらないといけなくなる。

俺は音楽をやってる人間。こう見えて、災害があるたびに、それなりに、「例えば今、音楽は不謹慎なんだろうか」ってなことを考える。

結論から言えば、音楽をただの娯楽だと捉えている人は不謹慎だと言うと思う。そして、そりゃそういうふうに考えるのは当然だし、それはそれでいいと思う。間違いじゃない。でも、音楽をただの娯楽だと捉えることができない人。音楽抜きには自分と自分の人生を語れない、「音楽に救われた」くらいに思っている人にとっては、音楽の力を知っているという意識があるだけに、不謹慎ではないと言うと思う。口に出して言わないまでも、胸の内では呟いていると思う。で、これまた、間違いじゃない。

他にできることがあるのなら、その都度、状況に合わせたできることをやればいいけど、他にできることがないのなら、他にできることがないんだから、自分にできることの力を信じて、できることを精一杯やればいいと思う。それが不謹慎な事なのかどうかについてはとりあえず、都合良く、神様の判断に委ねて。

もし、人それぞれに能力と役割を与えたのが神様なら、精一杯やってる分には不謹慎だとは言わんでしょう。


出順決定

くじ引きの結果、出順が決定した。

18:00〜 Club Aikawa

18:40〜 ヒラタユウイチ

19:20〜 若様

20:00〜 和田怜士

20:40〜 Oisoju

Club AikawaさんとOisojuさんは初めてお目にかかる。YouTubeでチェックしたところ、Club Aikawaさんはストーンズ等のカバーをしており、Oisojuさんはミッシェル(⁉︎)等のカバーをしていた。二組とも独自の大胆なアレンジを施していて、「コピー」ではなく、ちゃんと「カバー」と呼べるものをされてるという印象を受けた。若様は、俺がソロでやり始めた時に挨拶を交わす程度の軽い接点はあったが、その後全く接点がなく、今現在、音楽的にどんな感じになっているのかは存じ上げない。おそらく、あちらもこちらの現状を存じ上げない。ヒラタユウイチさんは、先日ここで書いたように俺からのオファーに応える形で今回の出演が決まった。「弾き語り」というものを忌み嫌っていた俺に「もしこれが「弾き語り」なんやったら弾き語りってめっちゃカッコええやん!」と思わせてくれた人で、いつか必ず勝負してみたいと思っていたアーティストの一人だ。

俺はとにかく全力でやる。いつも通り、ライヴが終わったら、その次の日はないと思って全力でやる。だから来い。美味い酒を飲みに来い!

びた一文奢らへんけど。


失せろポンコツ!

他人の曲をコピー、カバーしてると親父に怒られたものである。「作れ!」と。「ギターの練習してるだけや!」と切実に訴えても一切聞く耳を持たず、「他人の曲やるんやったら音楽なんてやめてまえ!自分の曲を作れ!」の一点張りだった。なので俺は曲を作りながらギターを覚えた。

人前でカバーやコピーばかりしている人がいるけど、俺は親父とは違ってそれはそれで良いと思っている。それもまた音楽の楽しみ方。他の芸術にはあり得ない、音楽にだけ許された楽しみ方だと思う。ただ、そういう人たちはひたすらに楽しむために音楽をやるべきだと思っている。「もっと楽しめるんじゃないか?」というところで練習を重ねて、セットリストを考えて、余計なことは一切考えずに、自分の音楽を、他人の音楽を「いかに楽しむか」ということに焦点を絞ってやれば、そういう姿勢は側から見ていても清々しいし、俺には真似のできないことだから羨ましくもあるし、音楽が喜ぶだろうし、素晴らしいと思う。

俺がアカンと思うのは、カバーやコピーしかできひんクセにエラそうに人の批評や批判をする奴だ。そんな奴にオリジナルをやっている人のことをとやかく言う資格なんてない。もってのほかだ。中には、上に書いたような、音楽を楽しみたい一心でカバーやコピーをやっている人のことを批評、批判、バカにしたりする奴がいたりなんかして本当に頭にくる。言いたいことを言う資格が欲しかったら作れ。親父譲りの「作れ!」を食らわせてやろうか。

曲を作るってしんどいこと。そこには生みの苦しみがある。この苦しみの中に「楽しい」はほとんどない。ただ、この苦しみを乗り越えた向こう側に巨大な「嬉しい」があるからやめられない止まらない。

しんどいのは嫌だと言って作らず、かと言ってただ楽しむということもできずに人を批判したりバカにしたりして喜んでいる馬鹿がいる。人の褌で相撲を取っておきながら謙虚さが一切見受けられず、同じ土俵の上にある謙虚な人を見下してドヤ顔を浮かべている馬鹿がいる。

失せろポンコツ!


サビーの挑戦

新曲『savvy?』は初の試みに溢れた素晴らしい曲になった。

フォークに挑戦!と言っても、日本の「四畳半」に代表される貧乏臭いやつじゃなくて、意識したのはボブ・ディラン(写真)。歌詞にパンチが効いてるから「やっぱりロックやん!」ってな事を言われる。何をやってもロックだと言われるのはディランも同じで、それは物凄く光栄で嬉しい事なんだけど、個人的には、音楽的にはこれは完全にフォークだと思っている。

試みは歌詞の中にもあって、俺には縁がないから一生使わないだろうと思っていた言葉を使ってみた。「青春」だ。「未成熟な純粋」もっと言えば「中途半端な純粋」みたいな意味合いで使ってある。それから、2番では初めて、介護士をしていた頃の経験を題材にした。ただ無駄に歳をとっているだけで全くもって尊敬に値しない人間的にゴミのような老人の誕生日を祝いながら心の中で舌打ちを打ったことなんて数え切れないほどあるし、廊下等で声をかけた時に、あまりに忙し過ぎて「はい?」と一応の返事をして振り向きはするものの立ち止まろうとしないナースも何度か目にした。我ながらなかなか痛烈な歌詞だと思う。

最後に映像についての試み。これは言うまでもなく歌詞のフリップを入れたことなのだが、これにも俺なりのこだわりを反映させてある。サビ部分だけフリップを抜いたのだ。サビは曲を読み解く鍵。重要な部分だからこそ、グッと身を乗り出して聞いてもらいたくて、フリップを抜いた。これは、松本人志がここぞという所で声を絞るのと同じ原理だ。

というわけで、新曲『savvy?』は俺のお気に入り、自信作となった。もう映像は観てもらえただろうか?まだだという人は是非観て、予習をしてから、次のライヴを観に来て欲しい。

savvy?


小さなことからコツコツと

やはり、表現の場である以上は手を抜かずにしっかり作り込んでいかんとアカンな…と考えるようになった。というのは、フェイスブックの話である。

これまで、フェイスブックはあくまでライヴや動画公開の告知の場として活用してきた。でも、告知だけでは全くもって集客に繋げる事が出来ない事に気付いた。当ブログを読んでくれている人がライヴを観に来てくれることは多々あるけど、フェイスブックを読んでくれている所謂「友達」が観に来てくれることはあまりない。というのは当然で、当ブログの読者は俺の事をよく知ってるけど、フェイスブックの「友達」は俺の事をよく知らないからで、ライヴを身近なものに感じてもらおうと思えば、俺自身を身近な存在として捉えてもらわねば話にならんのである。

ブログをやり始めた時、「日記は書かない」と心に決めたが、それはフェイスブックにも同じことが言えて、やはり日記は書きたくない。人は皆、フェイスブックを「公開日記」として使ってるけど、俺は日記は書かずに「読み物」と呼べるものを書いていく。しかしながら、ブログのように本音を書いてしまうとすぐに引かれてしまう(これも俺の事をよく知らないからだ)ので、本音は極力抑えて、抑えながらも俺の人となりが伝わるような記事を書いていきたいと思っている。

現状、「友達」が23人しかいないフェイスブックではあるが、短いながらも読み応えのある面白い記事を寄せていく。だから、誰か、「友達」になってくんね?


怒涛のR&Rデイズ

よっしゃあ!!

来月のリアムに続いて、10月の佐野元春&ザ・コヨーテバンド、大阪公演のチケットをゲットした。

来月はまず、7日にポールがニューアルバム『エジプト・ステーション』を出すから、これを買う。それから、9日には俺のライヴがあって、それから19日にはリアムのライヴを観に行って、その後、10月に元春さんのライヴを観に行く。

ポール、リアム、元春さん。怒涛の如くに良い刺激をビンビン受けて、良い曲をジャンジャン書いて、ガンガン成長していきたい。

ロッケンロール!!


卓下のプロフェッショナル

今のところ、俺が身近なアーティストで良いと思っているのは、ソロで4人、バンドで1組だけ。そして、この5組の中で、特にメロディーを評価しているとなると僅かに2組で、その2組の内の1人がこの太田ヒロシ君である。

音楽やってるとイライラすることが多い。理由は色々とあるけど、その内の一つが「どいつもこいつもどうしてこうメロディーがくだらないんだろう」ということ。音楽は色々な要素から成り立っているけど、どいつもこいつもメロディーを諦めて、リズムとか音圧とか歌詞とか、メロディー以外の要素を前面に押し出している。演者がそんな調子なので、ライヴハウスやライヴバーに足を運ぶお客さんもメロディーに期待しなくなってしまっている。良いメロディーなんて聴けるわけがないという諦めの気持ちが根深く、強過ぎるために、奇跡的に目の前に良いメロディーを聴かせるアーティストが現れても気が付かなくなってしまっている。人の身体や機械が使わないと劣化して壊れてしまうように、メロディーを感知する機能に支障をきたしてしまっている。そして、そんな中で苦戦を強いられているのが俺であり、太田くんなんだと、俺は思っている。

俺は別にキリスト教徒でも何でもないけど、読み物として好きでよく読んでいた聖書の中に「ランプは必ずテーブルの上に置かれる」という一節があった。もしそれが本当なら、俺も太田くんもこのまま終わるわけがない。だって、もし「プロ」と「アマ」の違いが「それで食べていけてるかどうか」ということではなく、能力の差だけを言うのなら、俺のメロディーも太田くんのメロディーも完全にプロの仕事なんだから。


鼓舞の三重構造

伊丹は盆踊りが盛んな街であるが、それは特に北部を指して言うことであって、南部はさほどではない。が、そんな南部にも1箇所だけ、俺のように北部で生まれ育った人間をも唸らせる熱い盆踊りがあって、昨夜、見に行った。

ずっと音を聞いていた。そして、「これはライヴだ」と思った。やはり、ライヴはお客さんと一緒に作るものだ。どんなに素晴らしい演者が、どんなに素晴らしい演奏をしても、そこにお客さんがいないんじゃどうにもならない。俺がライヴの時にいつもギターの内音(客席にではなくステージに向けて出す音)を大きくしてもらうのは、自分を鼓舞するためだが、お客さんが目の前に大勢いるというのは、それも良いお客さんが大勢いるというのは、ギターの音以上に自分を鼓舞してくれる。演者とお客さんの「鼓舞して鼓舞されて」に引っ張られるようにして、その空間全体がズンズンズンズン高みに昇っていく。これがたまらない。これがライヴ。

盆踊りは、太鼓を叩く人がいて、櫓を取り囲んで踊る人がいて、太鼓を叩く人と踊りを踊る人を取り囲む人がいる、鼓舞の三重構造。

その辺のロックバンドには到底歯が立たない迫力がある。