Monthly Archives: 9月 2016

私はロックの人だけど

image1_11.JPG

私はロックの人なので、持ち時間30分のライヴに於いては、バラードは一曲しか歌いません。でも実は、「ロックの人」とか「ロックな人」とか言われるよりもずっと、「メロディーメイカー」と呼ばれることの方が嬉しかったりする人だったりするので、必ず一曲はバラードを歌います。って言うか、私の曲は、基本的には、どれもこれもバラードなんですよ。本当はね。


言葉の壁

image1_9.JPG

⬆︎ジミー・ペイジ

レッド・ツェッペリンのリーダー、ジミー・ペイジがツェッペリンの全音源の音質向上(デジタルリマスター)に取り組んでいるように、私は私で、自分の全オリジナル曲の歌詞の見直し/改良に取り組んでいる。そして昨日、ようやく、全42曲中34曲の見直し/改良が終わった。残すところあと8曲。

歌詞の見直しについては、バンドをやっている時からやらねばやらねばと思っていて、そんな曲が多々あったのだが、バンドをやっている時は過去の曲の見直しよりも新曲を量産することの方に重きを置いていたので、ついつい過去の曲がほったらかしになってしまっていた。

地道かつ地味な作業を経て、過去に書いた曲が甦っていく様というのは実に嬉しい感覚なんだけれども、いかんせん地道かつ地味な作業なので、産みの苦しみと言うかなんと言うか…面倒くさい。でも、気に入らないものを人前に晒すわけにもいかない。

もし、歌詞を書かなくても良いんだったら、今頃、私のオリジナル曲は200曲くらいあると思う。

メロディーやアレンジは閃きだけでどうにでもなるけど、歌詞はそうは烏賊のきゃん玉。メロディーに対して言葉数を合わせないといけないし、韻を踏まないといけないし、意味だけではなく、言葉の持つ響きやリズムを吟味してベストなチョイスをしないといけないし…かくして、作曲の何倍も作詞に時間を費やして、私は本当に音楽の人なんだろうか?と、たまに思う。

ジミー・ペイジが羨ましい。だって、ツェッペリンの歌詞の大半はヴォーカルのロバート・プラントの手によるものなんだから。

ロバート・プラント求む。


再起動

image1_7.JPG

訳あって、また少し停滞してしまっていたが、今日からスタジオでの練習を再開した。

できれば、年内に2回ライヴをして、我が愛器ギブリン(ちなみに本当の名称はギブソンJ-180といいます)の爆発的な音を収録した新しいライヴ盤を出したいと思っております。


噴水と私

image1_6.JPG

昨日、私のCD『Ⅳ』のジャケ写に使用した、水が出ておるのを見たことがない噴水から水が出ておりました。

別段、誰に眺められることもなく、ひっそりと自己主張しておりました。

心の中で噴水に「お前なあ、自己主張はひっそりやるもんじゃないぜ」と声を掛けてみたところ、「お前に言われたかねえよ」という返事が返ってきた…ような気がしました。


私は癒し系

image1_5.JPG

俗に言う「癒し」の意味がさっぱりわからない。

子供の頃の私にとっては、ビートたけしの毒舌こそが癒しで、それこそあのフライデー襲撃事件なんて本当に感動して、完全に癒しな出来事だったし、ストーンズの初来日公演を観た中2以降はロックが癒しの最たるもので、例えば、ビデオで観たセックス・ピストルズのライヴで、ジョニー・ロットンが「誰でもいい!誰かを殺せ!」と半泣きで叫んでいる姿こそが癒しだった。本当に、涙が出るくらい嬉しかったんだから。

私に関して言えば、俗に言う癒しが癒しだったことなんてただの一度もない。

私は、私の音楽は癒し系だと思っているし、私自身も癒し系だと思っている。私と同じように、俗に言う癒しに癒されない(騙されない)人たちにとってはなかなかの癒し系だと、常日頃、自負している。

で、これは、以前にも書いたかもしれないけど、私は、「癒し」なるものにもコンタクトレンズと同じようにソフトとハードがあると思っています。でも、誰もかもがソフトなものだけを癒しだと捉えているようで、そのことに違和感を感じたり疎外感を感じたりしてイライラするたびに、私にとっての癒しが、じゃんじゃんじゃんじゃんハードなものになっていきます。


主体は私

image1_4.JPG

コンビニで「心を揺さぶる88の名言」という柄でもない本を見つけて、買った。

88の名言のうち、一番気に入ったのは、なんのこっちゃない、大好きな太宰治の言葉だった。

『私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです』

陽が当たる方向に伸びて行くんじゃなくて、伸びて行く方向に陽が当たるってのが良いんです。


ジュディの虜

image1_3.JPG

私は本当に蝶という生き物が好きで、散歩中に蝶を見掛けるといちいち立ち止まって見入ってしまいます。

好きな理由としては、姿形が綺麗だからというのはもちろんですが、それ以上に、あのフラフラした飛び方が好きなんです。

いつも、「あんなふうに生きられたらなあ」と思うと同時に、「あんなふうにしか生きられないんだろうなあ」と思っています。


骨格で泳げ

image1_2.JPG

「水を得た魚」という言葉がございます。これ、鳥だと「空を得た鳥」となるかと思いますが、人だとどうなるんでしょうか。

「詩的でない」という理由から、「酸素」がボツで、「金」もボツとなると、人は人の中にあってこそ人、「人間」なので、「人を得た人」となるのでしょうか。で、「「人を得た人」だと文章としておかしいだろう。どれ、俺がちょっと添削してやろう」と言って、私の隣に割り込んで来て、「人」を「愛」に書き換えた男がいるので恐る恐る顔を覗いてみたらレノンだったーみたいなことなんでしょうか。

何だかよくわかりませんが、いずれにせよ、政治を語っている時の東国原英夫は水を得た魚だと思います。