血に抗って

俺には、ライヴハウスやライヴバーに行くと、バンド、ソロを問わず、見た目や音を取っ払ってメロディーだけに耳を傾ける癖がある。で、その9割がただの歌謡曲だということに気付く。それはアマチュアに限った話ではない。プロも同じ。流行りの、テクノロジーを駆使したダンス音楽であっても、メロディーだけを拾えばただの歌謡曲。

歌謡曲的なメロディーラインは日本人の「血」と言えて、遺伝子レベルの病。ほとんどのアーティストはそこに「置きにいっている」だけ。また、作る側の人間が日本人なら聴く側の人間も日本人。同じ血が流れているからどこかに「聴いたことがある」という既聴感があり、既聴感に安堵して、その音楽を「良い」と言うが、俺には全くピンと来ない。血に抗うことなく、血のままに作った音楽なんて面白くも何ともない。ただの手抜きだろう。

かく言う俺も日本人だ。でも俺は、和田怜士の音楽には歌謡曲臭はないと自負している。意識的にも無意識的にもそれを徹底的に排除している。だから、一般的な日本人は困惑するだろうと思う。既聴感がない。日本人特有の匂いがしない。にも関わらず日本語が乗っている。わからない…と。そんな人たちが俺のライヴを観て感じ取ることができるのは熱量だけ。これまで何度「熱い」という感想をもらったことか。昔は嬉しかったけど、最近はさほどでもない。もちろん、顔面を紅潮させて「熱いライヴでした!」と言われると嬉しい。でも、声を弾ませることもなく「熱いですね」などと言われても、「またそれしか伝わらなかったのか」と寂しくなる。

ある友人が言った「俺は怜士の音楽は洋楽やと思ってる」という言葉を誇りに思っている。圧倒的に正しい。でも、だからこそ、このままずっと売れないかもしれない。無名のまま終わるのかもしれない。とはいえ、自分の音楽を信じる気持ちにブレはないし、それをそこら辺の日本人の為に、数の為に、分かりやすく噛み砕いて提供してやるつもりもない。

この文章もまた、「熱い」の一言で終わるのだろうか。


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