次のバンドは本物だ。
次の恋愛は本物だ。
次のバンドで最後だ。
次の恋愛で最後だ。
仕事は地盤。しっかりした地盤を拵えて、この地盤の上に、終わらない夢と終わらない恋をおっ建ててこます!
本当に本当に、頑張ろうと思うし、ようやく、理想的な「頑張り方」がわかってきたような気がする。
ここで叫ばなきゃいつ叫ぶ―ロッケンロー!!
次のバンドは本物だ。
次の恋愛は本物だ。
次のバンドで最後だ。
次の恋愛で最後だ。
仕事は地盤。しっかりした地盤を拵えて、この地盤の上に、終わらない夢と終わらない恋をおっ建ててこます!
本当に本当に、頑張ろうと思うし、ようやく、理想的な「頑張り方」がわかってきたような気がする。
ここで叫ばなきゃいつ叫ぶ―ロッケンロー!!
今日は、大阪の施設で働いていた頃に使っていたのと同じタイプのボールペンとシザーバッグを装備して、働いた。
懐かしい2点―装備した瞬間から、なんとな〜くイケるような気はしたけど、それにしても、今日は本当によく動けたと思う。勘が戻ってきているのか、身体を動かしていて、「そうそうそうそうこの感じ!」というのがあった。
形から入るのの何が悪い。結果さえ出せりゃなんでもいいじゃねえか。
今まで、理性優先で生きてきた。あくまで、理性が、主導権を握ってきた。理性が、本能を押さえつけてきた。それが、ここにきて、すごく辛くなってきた。そういう経緯で、最近、「気分転換」ということを考えるようになった。
今後は、本能の言うことにもしっかり耳を傾けてやろうと思う。衝動的に、やりたいことをやりたいようにやろうと思う。
私は、生来、理性の効いている人間―臆病な人間だから、今だかつてなく本能の声に耳を傾けたところで、やっぱりどこかで理性が効いちゃって、めちゃくちゃなことにはならないだろうと思う。
本音を出していこうと思う。声を張って、本音を出していこうと思う。
自信がない時、人は、声が小さくなる。ということはつまり、声を張れば、取り戻せるんじゃないのか?―自信。
レノンの、「答えは、考えていることと全く別のことを考えた拍子に見つかる」という言葉は、気分転換というものの効能をよく表していると思う。また、三国志の中で、蜀の丞相、諸葛孔明が魏のある城を包囲した際に、早々に包囲したにも関わらず攻めあぐねて、長期に渡って陥落させることができなかった時、将軍の姜維が孔明の幕にやってきて、「丞相は少しこの城にこだわり過ぎておられるような気がいたします。ここは「離」が肝要なのではございますまいか?」と提言して、これを聞いた孔明が、「そうじゃ、私は離を忘れておった!」と手を打って言い、姜維の言を容れ、即刻全軍に撤退命令を下した―というエピソードも、気分転換というものの重要性を思わせる。
気分転換とは、「離」以外のなにものでもない。レノンも「離」の中から答えを見いだしたんだと思う。
ある問題に直面して、頭の中が散乱。手が付けられなくなったら、一旦、完全にそこから離れてみる。そして数時間後、または数日後、元の場所に戻ってみるとアラ不思議。あれだけ散乱していたものがシンプルに、一つの形に纏めあげられているではないか!―という経験をしたのは、私自身、一度や二度ではない。
気分転換と書いて、「離」と読む。
心的エネルギーは、全体にバランスよくふりむけられなければなりません。ところがその心的エネルギーを一点にだけ集中させると、磨耗現象が起きてしまいます。
わたしはこれを〈過剰集中性〉と呼んでいます。
朝から晩まで同じ一つの漢字を思い浮かべていると想像してみてください。その漢字の正しい読み方や書き方がわからなくなってしまうでしょう。一目ぱっと見て「ヤマ」と読み「山」と書けたごく平凡な漢字が、長いあいだながめていると、しまいに摩訶不思議な暗号のように見えてきます―三本の縦の線と一本の横棒がなぜ「山」なのか?
これが過剰集中性によってもたらされる錯覚です。しかし海や川、湖などといった漢字へ目を移すと、その混乱は一瞬のうちに解消されます。過剰集中性が解除され、正常な感覚が回復したからです。
自分や自分の心についても、これは同じことがいえます。朝から晩まで自分や自分の心のなかのまぼろしをながめていると、過剰集中性の錯覚にとりこまれ、何がなんだかわからなくなってしまうのです。
脳は外部世界に向けてつくられています。目は外部のものを見るため、耳は外部の物音を聞くため、そして鼻は外部の匂いを嗅ぐためについています。
心や意識も同様です。
つまり人間は、自分自身のことを知ることが大の苦手なのです。
この世でいちばん疲れるのは、自分のことを考えることです。
「中立」っての、もうそろそろやめにしませんか?
明確に味方を作って、明確に敵を作りましょうよ。
「中立」っての、もうそろそろやめにしませんか?
味方が味方でなくて、敵が敵がじゃない―それ、楽しいですか?