警報への冷静な対応が求められる

ガタガタガタッと来てる感じがある。この感じ、身に覚えがある。早い段階で食い止めないといけない。

昨年のやり方は早くも古いやり方になってしまってるから、また新たに、別のやり方を模索しないと。

勢いの中に、勢い以外の、何か別の要素がいる―ということはわかっている。そして、本当は、その「何か」が何なのかもよくわかっている。

何かを得ても、結果的に、一時しのぎに終わってたんじゃ意味がない。

ひとつずつ、しっかり掴んでいかないと!


つまずき

1.私は「面接」が好きで、面接さえ受けられりゃなんとかなるぜ!と思っていたら、あろうことか、履歴書が送り返されてきた。面接くらい受けさせやがれ馬鹿タレが!

2.我が愛器『Tommy』のボディにシャレにならん亀裂を発見した。もうホンマ、頼むわ…としか言えなかった。


芸歴35年

私は、現実味がなかったり、社会性に欠けていたりするものに惹かれてしまう。子供の頃からそうだ。強く惹かれてしまう。そうして、「好きこそものの上手なれ」の言葉通り、結構上手になった。

私はある種、自分の社会性の乏しさを売りにしてきた。非現実的な部分を売りにしてきた。「ね?俺って奴ぁどうしようもない野郎でしょ?」という芸風で何とかやってきた。

「笑わせる」と「笑われる」の間には天と地ほどの差がある―という、笑いの基本を忘れていた。


告白

誰も信じてくれないと思うが、私は本当は、世間一般の人たちを心から尊敬している。みんな、平然と、アレもコレもできている。できて当たり前だとでもいうような顔をして歩いている。それに比べて私は、一つのことしかできないから、世間一般の人たちに対して、畏れに近いものさえ抱いている。何故そんなに色んなことができるんだろう…と本当は、畏怖の念でいっぱいだったりする。

私は、普通の人が普通にやっていることができなくて、普通の人がやろうとしないことについてだけ、人一倍上手くできる。能力が、社会的に意味を為さない、現実味に欠ける方向にのみ偏り過ぎていて、そりゃもう哀しいほどに生きづらいのである。

「自由に好きなものを創れ」と言われたら、私は、誰にも負けない自信がある。が、誰かの要望に沿ったものを的確に創れと言われたら、もう手も足も出ない。
アーティストとしての自信はあるが、職人としての自信がない。勝手に創ったものを、勝手に提供して、勝手に楽しめというのはできても、オーダーに沿ったものを拵えて、納得させて、喜んでもらうということが一切できない。だから、報酬が発生しない。金にならない。

本当は、私は、自分に与えられた能力について、常に懐疑心を抱いているし、抱いてきた。嬉しいなあー♪愉しいなあー♪なんて思ったことがない。ずっと不安だ。だからどうしても、アルコールが手放せなくて情けない。

神様に会って、「僕に与えたこれには一体何の意味があるんですか?」って訊いてみたいような気もするが、「特に意味はない」って言われるような気がしないでもないので、訊くに訊けない。

誰か、少しでも参考になるような人間が身近にいれば良いんだけど、これがいない。当たり前だ。私ほどバランスの悪い人間なんてそうそう滅多にいないんだから。

どうやって生きていこうと思う。切実に思う。今までだって、ずっと切実だった。


八回目の謎

「七転び八起き」という言葉はおかしい。七回しか転んでないにも関わらず、八回起きている。この男はきっと、過去に七回も転んでいるので、八回目もあるだろうと勝手に思い込んで、八回目の「起」の準備に余念がなかったのであるが、予想に反していつまで経っても八回目の「転」が来ないので、なんだかちょっとガッカリして、肩を落として、いつもなら転ぶタイミングの所で転んだと仮定して、「えいや!」と言って起きるフリをしてみたところ、わけのわからない虚しさが込み上げてきて、「こんなことしてるから俺、全っ然友達おらんのかな…」と呟いて哭いた―という話なのではなかろうか。

「七転八倒」は、もっとおかしい。本来であれば、七回転んで七回倒れた時点で病院へ行け!という話なのであるが、この男は病院嫌いで有名な男で、なんだかんだと屁理屈を言って病院に行かなかった。その結果、言わんこっちゃない、八回目に倒れた時には転んでさえいないのである。姿勢が崩れてから倒れるのではなく、棒立ちの状態のまま倒れているのであるから、これはもう手遅れ。心肺停止。周りの者も「あれほど病院へ行けと言ったのに行かんからだ」と冷笑して男の側を通り過ぎ、中にはツバを吐きかける者もあり、誰一人手助けをしないので、この男は八回目に倒れた時点で息をひきとったと思われる。

「七転び八起き」は、一人相撲の弊害を説いた言葉かと思われる。そして「七転八倒」は、「つべこべ言わずに病院へ行きなさい」という意味合いの言葉かと思われる

たぶん、違うかと思われる。


忘却の砂

定かではないが、ひょっとしたら私は、何かを忘れよう忘れようとしているのかもしれない。
何かを掴もうとしているのではなく、何かを手放そう、忘れようとしているのかもしれない。

穴を掘って、そこに忘れたい何かを放り込んで、その上からせっせと砂を投げ入れている―この砂の量が、昨今、私がここに書き込んでいる言葉の数に同じ。


虚空の弾丸

最近、閃く。

考えていることの線上ではない、全く別の場所にキラッと光るものを見つけて、これを手に取って見てみると何やら文字が書いてある。
文字の内容は、大概が私に対する指示で、「〇〇と言いなさい」とか「〇〇してみなさい」といった感じなのだが、一体何のためにそれを言ったりしたりするのかがさっぱりわからない。でも、なぜかその意味不明な指示に素直に従っている自分がいて、イメージ的には、明らかに無意味な方向に大砲を撃ってみたり、宛先を書かずに手紙を投函したりしているような感じがある。

これってやっぱり、完全に無意味な行為なんだろうか。それとも、何か、思いもよらない結果を生み出す行為なんだろうか。

敵がいる方向ではない方向―無意味だとしか思えない方向に放った大砲の弾が、意外や意外、目の前にいる敵以上の何か物凄いものに当たりでもするんだろうか。

さっぱりわからん。でも、閃くもんは閃く。