お茶でもいかが?

アッパーなパンク「俺はロックスタア」、ヘビーなバラード「WHY?」という流れできて、実は、次の曲もすでにメロディーの軸は出来ている。俺にしては珍しく爽やかな、風通しの良いカントリー調の曲で、あとは中盤に少し捻りのあるメロディーを挟めば歌詞待ち段階になる。歌詞はメッセージ性を抑えて、英国人らしく(誰が英国人やねん)「お茶でもいかが?」的なハートウォーミングなものにしたいと思っているが、予定は未定。俺のことだから「紅茶にハチミツを入れて」といくべきところを「紅茶に蜂の巣丸ごとぶち込んで飲もうとしたらスズメバチが飛んできて刺された結果、体質が変わって紅茶を受け付けない体になってしもうたアーメン」みたいな歌詞になってしまうかもしれない。韻を踏みたいがばっかりに2番の歌詞にはラーメンが出てきたりなんかして、タイトルは『殺戮のツタンカーメン』。

絶対にそうならないという保証はない。


WHO

昨日、昨年末に発表されたザ・フー、13年振りのニューアルバム『WHO』をようやく手に入れた。リリースされてすぐに大阪のタワレコまで買いに行ったのだが、まさかの売り切れ。大阪のタワレコで売り切れていたものが伊丹のHMVに並んでいたという奇怪な現象。

俺にとってザ・フーは別格の存在。ビートルズ、ストーンズ、オアシス、フリートウッド・マック、そしてザ・フー。俺の中での五大バンドなのだ(佐野元春がロックンロールに目覚めたキッカケもザ・フー。ずっと漫画家志望だったのに、ピートが腕を振り回してギターを弾いている映像を見て「これだ!」と思ったらしい)。だから、『WHO』に「手に入れない」という選択肢はなかった。意地でも、ネット通販ではなく、CD屋まで足を運んで手に入れたかった。

『WHO』は発表前から「傑作」の呼び名が高く、リリースされるや一気にUKチャート2位まで駆け上がった(あろうことかロッド・スチュアートに邪魔された)。一聴してぶっ飛ばされた。相変わらず怒っている。どう考えても、70歳を超えたオッサンが鳴らす音ではない。大御所扱いされることを拒否するかのようなバリバリのロックンロール。芸術作品としての緊張感、奥行き…ポールのニューアルバム『エジプト・ステーション』なんて足元にも及ばない。

ジャケットが綺麗。我が奥さんが作ってくれたバースデーケーキとの色合いがバッチリだと思ったので並べて写真を撮ってみた。

43年目の人生が始まった。幸先良く、起爆剤のようなアルバムを手に入れた。

※10曲目『ROCKIN’ IN RAGE』の歌詞は間違いなく、ピート・タウンゼントから俺へのメッセージ。感謝の気持ちを込めて全記載する。

虐げられることを恐れ

本心を語れないなら

沈黙を貫いた方がマシ

自分の意見は封印だ


きっと非難を浴びることになる

蔑まれ、ネットで煽られて

同調しなければ

のけ者にされて無視される


思えばこれが初めてだ

ここまで限界ギリギリな感覚に陥ったのは

闘うには歳を取り過ぎた

鉈(なた)に飛び出しナイフ

世間のつまはじき者になった気分だ

手持ちのカードを差し出しているような

行進に参加する資格が

まるで俺にはないかのようだ


激しい怒りに体が震える

屈んではのけぞって

全身の骨がバラバラに砕け散りそうだ


時の流れに逆らって

最後のひと暴れ

全てぶちまけるんだ

激しい怒りに体が震える


憤激のロック

ステージを降りる気はないぜ

激しい怒りに体が震えているのさ


ここでそいつが書けるなら

死に方は分かっているんだろう

不安を克服できるなら

飛べるようになるさ


こいつはお前の権利のはず

そのページに書き留めるんだ

書かなければならないんだよ

激しい怒りを爆発させないと


飛び方はきっと覚えられるさ

ステージに出ていくんだ

だが嘘をつくのと同じだぜ

怒りを爆発させられないなら


思えばこれが初めてだ

ここまで限界ギリギリな感覚に陥ったのは

闘うには歳を取り過ぎた

鉈に飛び出しナイフ

世間のつまはじき者になった気分だ

手持ちのカードを差し出しているような

行進に参加する資格が

まるで俺にはないかのようだ


激しい怒りに体が震える

盛りはとっくに過ぎたが

幕を下ろすつもりはないぜ

時間を無駄にする気はない


そう、これが因果応報ってやつさ

まだこれからって時に訪れる死

歳と共に落ち着くものだと思っていた

激しい怒りに体が震えたりせずに


憤激のロック

ステージを降りる気はないぜ

激しい怒りに体が震えているのさ


虐げられることを恐れ

本心を語れないのなら

沈黙を貫いた方がマシ

自分の意見は封印だ


こいつは俺の権利のはず

このページに書き留めるんだ

書かなければならないんだよ

激しい怒りを爆発させないと

激しい怒りを


43

今日、43歳になった。

特に何とも思わない。

ただ、1分1秒たりとも過去に戻りたいと思わない自分、今が最高だと思えている自分が嬉しい。

歳を重ねるたびに若返っていくような感覚があって、歳を重ねるたびに自分の事が嫌いではなくなっていく。

嬉しい。


机下の燭台

新曲制作。恐ろしく美しいメロディーが浮かんだ。降ってきた。

あっという間に歌詞待ち段階まで漕ぎ着けたんだけど、歌詞のない状態で聴いてもらいたいくらい凄い。えげつない。

ポールやクリスティンに聴いてもらって、「このメロディー、日本人が作ったんですよ」と言っても信じてくれないと思う。

何を間違えたか、日本に生まれてしまった。イギリスに生まれてたらビッグスターになっていたであろう男が、伊丹の片隅、換気扇の下で煙草を吸いながら「やっぱり俺は天才だ」と呟いている。

でも、親父がいつも言ってたな。「ランプは必ずテーブルの上に置かれる」って。


NO REACTION.NO REPLY

人と人との繋がりをネットが仲介するようになってからというもの、人間関係というものが随分と軽薄な、無責任なものになってしまったな…とつくづく思う。これまでにも何度か書いたが、例えばFacebook。真面目にやってると人間不信になる。

記事を書いてアップする。「友達」がそれを読んでリアクションする。「友達」も記事を書いてアップする。でも、その記事にリアクションしない…という馬鹿が掃いて捨てるほどいる。別に毎回リアクションする必要はない。たまに、記事の内容に応じてすれば良い。でも、その「たまに」がない。これはキャッチボールに例えると、ボールを投げて、受けた相手が投げ返してきたボールを受けないということ。それを繰り返すということ。そんなことをしていて罪悪感を感じないのか?平気でいられるのか?唖然とする。ネットの扱いには慣れていても、キャッチボールのやり方は知らんのか?話にならん。義務教育からやり直せ。

先日は先日で、ある人にお礼のメールを入れた。「先日はありがとうございました」と。そして、「これからもよろしくお願いします」と。本当にこれだけ。余計なことは一切書いていない。社交辞令といえば社交辞令かもしれないけど、俺も(年齢だけは)大人。気持ちを込めて書いた。が、驚くべきことに、このメールに対する返事がない。「こちらこそよろしく」で十分なのに、それすらない。以前からなんとなく、俺のこと苦手なんだろうな、嫌いなんだろうな…とは思ってたけど、失礼にも程がある。無礼にも程がある。立場も年齢も関係ない。人としてどうなんだ。

キャッチボールを知らん輩がいることに唖然としてたら、今度は挨拶を知らん奴が現れた。仕方ない。教えてやるからよく聞け。

「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すんだよ。

「こんにちは」と言われたら「こんにちは」と返してね。

「こんばんは」と言われたら「こんばんは」だよ。

喜怒哀楽。怒りというのは突き抜けると哀しみに変わる。激烈に哀しい…。


登場!バジえもん

当ブログの読者に「たむちゃん」という人がいる。我が奥さんの親友なのだが、ブログで俺が大の缶バッジ好きだということを知ってコレをくれた。缶バッジ製造機である。なんか、ドラえもんのポケットから出てきたもののような風貌をしているから「バジえもん」と名付けた。

昔、本格的にバンドをやり始めた頃、これが流行ったことをよく覚えている。バンドマンという生き物は皆、基本的に缶バッジが好きだから、コレが発売されるや飛びつくように買っていた。

販売用のものはこれまで通り業者に製作を依頼するとして、自分が個人的に作りたいものについては、これを使ってジャンジャン作っていこうと思っている。業者に頼むと高くつくけど、コレだと安いし、気楽にいっぱい作れる。良い趣味ができた。

ありがとう、たむちゃん!


消えゆく中から現れる道

メロディーにサビがあるように歌詞にもサビがある。俺に関して言えば、俺の曲に関して言えば、その「歌詞のサビ」というのは、メロディーのサビに当たる部分に持ってきているとは限らない。いわゆる「聴かせどころ」に持ってきているとは限らない。メロディーの流れに関係なく、自分にとってものすごく意味のある大切な言葉が曲のどこかに必ず一つはあって、それを俺は「歌詞のサビ」と呼んでいる。長いものもあれば短いものもある。例えば、極端に短いもので言うと、『赤い雨』の中の「私はここにいる」がそれに当たる。

先日完成した『俺はロックスタア』の中にももちろん歌詞のサビはあって、それは完成したと思われた日の翌日の朝に突然浮かんで書き加えた「捨てる神/選択肢を与えないで/拾う神/約束を一つ叶えて」という一節。

子供の頃から「自分は何も出来ない人間だ」という意識が強かった。いつもヘラヘラしていたけど、実は劣等感の塊だった。あれができない。これもできない。人並みにできることが何もない。道が消えていく。猛烈な勢いで選択肢が消えていく。ヤバい。観念しかけた時、僅かに一本だけ道が残っていて、それが音楽でありロックだった…という経験から生まれた一節。

そりゃ、数ある選択肢の中から一つを選ぶというのが理想だけど、残り福というか何というか、残された唯一の道が自分の愛する道だと言えるのなら、それはそれで素晴らしいことじゃないか!という、実は相当にポジティブな「サビ」なのだ。

ところで、今後俺はどこでライブをやればいいんだろう。単純に「どこで」という場所の話なのだが、どうも新規開拓する気になれない。はっきり言って、ライブハウスはない。相変わらず、接客業を営んでいるという自覚に乏しく、演者に対してもお客さんに対しても態度が悪い。ヤル気がなくてエラそうで暗い。その点、ライブバーにはまだ希望が残っているように思う。接客業を営んでいるという自覚があって、危機感のようなものを感じる。が、新規開拓するとなると、探してはいるんだけど、なかなか見つからない。演者同士がお互いを「音友」などと呼んで仲良しこよししてるだけの店なんて死んでも出たくないし、そんな奴らに「お呼びでない奴」扱いされるのは御免だ。

つまり、ここに来てまた、道がないのである。今、僅かにある道もいつ消えてなくなるかわからない。でも、ま、いっか…と思っている。最終的にはまた一本だけ、道が見つかるんだろうし、それが俺の進むべき道なのだろう。

思うに、捨てる神と拾う神は同一人物だ。


音楽の光と闇

日頃から美味いものを食べている人には不味いものがわかるが、日頃から不味いものばかり食べている人には美味いものがわからない…という言葉を聞いたことがあるのだが、これは音楽にも同じことが言えて、日頃から良い音楽を聴いている人には良くない音楽がわかるが、日頃から良くない音楽ばかり聴いている人には良い音楽がわからない。

食についても音楽についても、百歩譲って、「わからない」と正直に言えるうちはまだ救いようがあると思うのだが、「好みの問題で優劣など無い」などと言いだした日にはこれはもう残念ながら救いようがない。その辺に転がっている石ころと宝石との間に価値の差は無いと言ってるようなものなのだから、病院を紹介するより他、手の差し伸べようがない。

また、これは最近になってようやく確信するに至ったのだが、音楽は現実逃避するためのものではない。音楽は現実ありきだ。現実に対する怒りであったり哀しみであったりを表現するものだから、現実に根ざしていないものは音楽とは言えない。逆に言えば、現実が形を変えるたびに音楽も形を変えて、そういう性質が音楽の面白いところだと思う。

ジャンル的に、どれがそれに当たるのかは言わないが、現実逃避するための音楽がある。現実逃避するところからしか始まらない音楽がある。それは言うなればドラッグ。深く染まってしまうと現実から足を踏み外してしまうことになる。ヤバいものに溺れてしまっているという意識があるだけ、まだドラッグの方がマシなのかもしれない。

全ての物事には表裏がある。音楽に限ってそれが無いなんてことはあり得ない。そして、薬と毒は紙一重。

俺の?俺のはこれは薬。現実に根ざした木になった実でできてる。身体にも頭にも良いし、薬のくせに驚くほど美味いから昔から一度も手放したことがない。自分でも栽培してて、たまにお裾分けとかもしてるよ。ま、すごく喜んでくれる人もいれば、あんまり喜んでくれない人もいるけどね。

お前のは?お前のは、それは…。