新曲『俺はロックスタア』完成(※1/15 歌詞改良)

⬆︎改良版。

新曲『俺はロックスタア』が完成した。

バンド時代に書いた曲に『僕はフィクション』というのがあって昨年ボツにしたのだが、メロディーにも歌詞にも所々捨て難いものがあって、その部分だけを残して、大幅にアレンジを変えて、歌詞を書き換えて、復活させた。前記事にも書いたが、中盤にスカのビートを取り入れたパンクナンバー。ライブで盛り上がること間違いなし。

これで53曲目だ。アルバム4枚分も素晴らしい曲を持ってるのに一度もワンマンライブやったことないっておかしくない?


缶バッジ第四弾到着

新たに缶バッジ3種と、缶バッジに同封するマッチ箱サイズのステッカーが到着した。

缶バッジについてちょっと解説。右はアルバム『eclipse』のジャケットにもなった写真をカラフルにしたもの。「0469」に被せてある白い文字は「ROCK’N’ROLL」。真ん中は「ロッケンロー」バッジ。俺といえばロッケンローだろう。ライブの時、威勢良く「ロッケンロー!」と叫んでくれる有り難い幼馴染みがいるのだが、彼は絶対にこれを買わねばならない。そして左が今回の目玉、「怜和」バッジ。買ってくれた人がリュック等にこれを付けて街中を歩行する際、通りすがりの見知らぬ人に「字、間違えてるで」などと言われる事がないように、「怜和」の文字は少し薄めにしてある。

缶バッジもステッカーも、実物を見てもらえば分かると思うのだが、非常に良く出来ている。プロのライブで売っているものと比べても何ら遜色ない。当初、1個¥300で販売するつもりだったのだが、それだと赤が出てしまい、継続していけないので再検討しようと思っている。

というわけで、順調に進捗しているグッズ制作なのだが、順調に進捗しているのはグッズ制作だけではない。曲作りの方も順調で、今年一発目の新曲『俺はロックスタア』が完成間近となっている。中盤でスカのビートが飛び出すパンクナンバー。他にも、美しいメロディーがチラホラ浮かんできていて、俺自身、楽しみだ。


ドッペルゲンガー

でね、長いトンネルを抜けて、和田怜士として音楽活動を再開することを決意した時、まさにその瞬間、降ってきたかのように誕生した曲がこの『バタフライ』だったわけです。随分と長いこと曲作りから遠退いていたのに、突然物凄いのが出てきたから驚いた。最初に曲の輪郭のようなものがぼんやりと浮かんでから完成に至るまでの過程からして、それまでに経験したことのない流れだった。冗談抜きで奇跡だと思った。だから当然、思い入れが違う。

これまで19回ライブをやってきたけど、この曲をやらなかったのは僅かに2回。初ライブの時(信じられないことにやり忘れたのだ。久々のライブで嬉しくて脳みそ爆発してたし、久々のライブなのにこの曲の他にもやったことのない曲を幾つか並べたからいっぱいいっぱいだった)と全曲新曲ライブの時だけ。だから、これから順次発表していくライブアルバム4枚全てにこの曲は収録されている。

驚くほど飽きが来ない。何度やっても冒頭のアルペジオを弾く時には緊張するし、何度やってもアルペジオからストロークに移る瞬間には無敵感でいっぱいになる。

この曲は俺そのもの。これを聴けば俺の音楽がいわゆる邦楽ではないことが良くわかると思う。メロディー、歌詞、ギタープレイ…全てが俺。ストーンズが「サティスファクション」をやり、ノエルが「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」をやるように、和田怜士は『バタフライ』をやる。つまりは代名詞。

それにしても何故この曲に限ってたまにこうして特別に記事にしたくなるんだろう。自分でもわからない。俺の中に、せめて当ブログの愛読者の皆さんにはこの曲が俺にとっていかにスペシャルな存在なのかをわかっておいてもらいたいという気持ちがあるのは確かだが、どうやらそれだけでもないようで…。

何かあるな。演奏するたびに思うことだけど、この曲、何かある。ライブでこれをやらないと、得体の知れない寂しさのようなものが残るし…。タダ者じゃない。


羽化の記憶

気付けば、かつての俺をよく知っている、かつての俺を象徴するかのような親友たちが、僅か数人を残して、俺の周りからいなくなっていた。ざっと思い付くだけでも5人はいなくなった。

理由はそれぞれにあって、共通する一つの理由からそうなったわけではない。ただ、俺の周りから一人、また一人と親友たちが去り始めたのが、俺の親父が死ぬ前後だったということだけは間違いない。明らかに親父の死がポイントになっている。

親父が死んだ時、悲しかった。驚くほど涙が出なかったのは、悲し過ぎたからなのかもしれない。でも、心のどこかで、親父の死を喜んでしまっている自分がいるのを感じてもいた。

親父から多大過ぎるくらい多大な影響を受けてきた。自分の人生であるにも関わらず、「親父だったらどうするだろう」みたいなことばかり考えて生きてきた。その親父が死んでいなくなることで、ようやく自分の人生が始まるような気がしたし、新しい自分が始まるような気がして、新しい自分と「親父のコピー」でしかなかった自分とを全くの別物として分けて考えたくなった時、そのタイミングで「和田怜士」が生まれた。

去っていった親友たちはあくまで、かつての俺の親友たちであったから、猛烈な違和感を感じただろうと思う。彼らの知る俺は、はっきりとした物言いのできる人間ではなかったし、決断に力強さがなくて行動が曖昧だった。「俺は俺であって俺ではない」という意識が常にあって、自信がなかったからだ。それが突然、自信満々に「俺はこう思う」「俺はこうする」「邪魔するな、うるさい、黙れ」と言い出したんだから、違和感を感じて、拒絶して、当然だと思う。

人は思想、言葉、姿勢、行動…全てに於いて曖昧な時、つまり、人として曖昧な時、他者と多くの繋がりを持てるらしい。軸を持つと人を選ぶようになるし、選ばれるようにもなるから、「広く浅く」ができなくなる。

かくして、今、俺は幸せだ。かつてなく幸せだ。だから、彼らが去ったからといって、過去の自分に戻りたいなんてことは微塵も思わない。俺が過去の俺に戻らない限り、彼らが戻ってくることはないんだろうけど、蝶は蝶。二度とサナギには戻れないんだから、彼らが戻ってくることもないだろう。

何かを得ようと思えば、何かを失うことになる。親父や親友たちを失って、和田怜士と新たな人生を得た。過去は過去。割り切って潔く行こう。後生大事に抜け殻を抱えて飛ぶ蝶なんていないんだから。


激情のpoly

70年代のパンクが大好きだ。

ピストルズ。クラッシュ。ラモーンズ。ダムド。ストラングラーズ。ジャム。シャム69。デッド・ボーイズ。トーキング・ヘッズetc…。

女のパンクスもいた。女王はパティ・スミス。それから、ブロンディのデボラ・ハリー。

俺はこの人が一番好き。poly。

何かを変えたい、壊したいという激情さえあれば上手下手なんてどうでもいい。

それがパンク。


悪玉志願

昔、ある友人が「なんでええ人が(病気や災害で)死ななアカンねやろ。神様なんておらんで」と言ったので、「善人も悪人も殺すから神様なんとちゃうか?」と言ったら激しい口論になった。

悪人だけが殺されて、誅殺されて、善人だけが生き残って、世の中が善人だらけになったら、善人が何をもって善人なのかがわからなくなってしまう。右も左も善人。そんなアンバランスはない。だいたい、神様が全てを作ったのなら悪人を作ったのも神様のはずで、何かしら意味があるから作ったはずで、善人だけを生かして悪人を一掃するというのなら始めから悪人なんて作らなければよろしい。という話なのではなかろうか…ということを、毎年、健康診断を受けるたびに思う。

健康診断を受けるたびに善玉コレステロールが多過ぎるという結果が出る。善玉なんだから良いんじゃないのか?多ければ多いほど良いんじゃないのか?と思うのだが、医者はバランスの問題だと言う。善玉には善玉の役割があって、悪玉には悪玉の役割がある。バランスの問題なんだと言う。毎年、同じ問答があって、毎年、「そう言われてみるとそんな気もする」とすんなり腑に落ちる。

「音楽やる人間として」という視点で考えてみたところ、俺は聴き手、お客さんに対しては徹底的に善玉でありたいが、演者、同業者に対しては悪玉でいたいと考えているらしいことが判明した。お客さんに対しては常に良い音楽を提供していきたいし、閃く限りのアイデアでもって楽しんでもらいたいと考えているが、同業者に対してはどこかで嫌われていたい、嫌われてナンボだと考えている。

巷のアーティスト。良い人が多過ぎる。良い人だと思われたいと思っている人が多過ぎる。お客さんに好かれたい。同業者にも好かれたい。誰にも嫌われたくない。そう考えている人が多過ぎる。善玉だらけで悪玉がいない。これが人体なら完全に病気。演者に演者らしい灰汁(あく)のようなものがない。お客さんと演者の見分けがつかない。お客さんはお客さんを観に来たわけではない。面白くない。閑古鳥が鳴く。

と、そこへ持ってきて、俺がやってる音楽が何かと言えば、数あるジャンルの中で悪玉をやらせたら右に出る者のいないロックなわけだ。お客さんと音楽そのものに嫌われさえしなければ、あとはもう誰にどう思われようが関係ない。嫌われたら、かえって箔がつくというもの。

ステージの上に鳩がいる。掃いて捨てるほどいて、辺り構わず有害な糞を撒き散らすので「平和の象徴」が聞いて呆れる。そこに一羽のカラスがやってきて孤軍奮闘。鳩を蹴散らしたら、それでもなお、カラスは悪玉扱いされるのだろうか。

意外に、スタンディングオベーションをもって歓迎されるのではないだろうか?


2020 迎春

毎年恒例。俺の神様がおるとされる伊丹の東天神社にお詣りに行って、いつもの御守りを買って、おみくじを引いた。

吉。

「古い事を改め、新しい事を始めるによし」とあり、「時に乗ずると大漁を得る」とあった。

御賽銭を投げ入れて手を合わせて願いごとをした。何を願ったのかは秘密。言わないけど、その願いごとに神様がわかりやすく答えてくれたような気がした。


2019 締めの挨拶

本年もご愛読ありがとうございました。

いつもライブを観に来てくれるのは当ブログの読者の皆さんであって、Facebookの「友達」ではありません(笑)皆さんこそが友達です。俺の当ブログに於ける旺盛な執筆意欲も、皆さんが読んでくれていると思えばこそです。いつも、本当に、心から感謝しています。ありがとう。

それから、海賊ライチのスタッフのみんなには今年も目一杯力を貸してもらいました。支えてもらいました。みんなのお陰で、全てのアイデアを余すことなく行動に移すことができました。そして、悔いなく一年を終えることができます。心から感謝しています。ありがとう。

それから、随分と疎遠になってしまってるけど、かつての戦友。当ブログの管理人さん。あなたが作ってくれたこのブログは俺にとって欠かせない発信源であり、いまや、俺の思考や活動の軸になっています。後で俺が勝手に手を加えた部分が多々見受けられると思いますが、全ては「結果に結びつけていきたい」という一心によるものです。許して下さい。いつも感謝しています。ありがとう。

皆さん、本当にありがとう。来年もよろしくお願い致します。

良いお年を!


缶バッジ第三弾到着

イラスト「savvy?」「蝋燭(ロウソク)」と、将来まともな大人にならないことが約束されているかのようで気に入っている幼稚園児の時の俺の写真とで作った。

次のライブまでにとりあえず9種類作ろうと思っている(縦に3個、横に3個、物販テーブルに正方形に並べたいから)。

1個¥300で販売するつもりだが、アルバムを買ってくれる人たちには1枚につき1個、特典として無料で提供したいと考えている(もちろん、アルバムを予約して、既に手に入れてくれた人たちについても1枚につき1個、無料で提供させてもらう)。

今のところ、1種類につき3個しか在庫がないから、もし欲しいものがあれば早めにライブ会場に来てもらった方が良いかもです。

大量生産しないし、人気のないものは即廃版にするから、貴重といえば貴重。

いずれ絶対価値出るし。


嬉しい記事

ネット上で興味深過ぎる記事を発見。思わずプリントアウトしてしまった。タイトルは『CDの時代は終わってしまうのか』。CDを愛する俺としては絶対に見過ごせない。記事の中から幾つか抜粋してみる。

「以前は年間にCDを100枚以上買っていたのに、最近は全く買わなくなった」などという話をよく聞く。今やCDプレーヤーさえ持たない人も多い。もはや利便性ではCDは音楽配信にはかなわない。本当にCDの時代は終わってしまうのだろうか?

将来、CDが儲からないとなって、レコード会社は次々とCDから撤退するのだろうか。そうなったら、彼らは何を売るのだろうか。配信サイトを通じて、録音された音楽データをバラバラに切り売りするだけの会社になるのだろうか。

2019年は心に残る自主制作盤CDがいくつも発売された年であった。レコード会社に採算度外視の良心的なモノづくりは難しい。会社である以上、何かというと短期的事業性と効率がシビアに問われてしまうのだから。そうなってくると、力を発揮するのは、やはり「個人」である。そのアーティストが、どうしても伝えたい音楽を、納得のいくクオリティにまで高め、志を共有してくれる協力者の手を借り、文章もデザインも含めた、パッケージ丸ごとでメッセージを込められるモノにする。アーティストが贈り物のように気持ちを届ける。そのためには、まだまだCDは有効な手段である。

手に取って触ることもできなければ、匂いを嗅いだり、しげしげと見つめて目で楽しむこともできない『データ』を、いったい人は深く愛することができるのだろうか。音楽への愛を深め、アーティストのメッセージを贈り物のように託することのできる手段としてであれば、CDは今後も生き残っていける。それが筆者の希望的観測である。

完全に同感。同感過ぎて俺が書いた文章なんじゃないか?と思ってしまった。特に中盤。「やはり「個人」である」以降のくだり。「志を共有してくれる協力者の手を借り」「文章もデザインも含めた、パッケージ丸ごとでメッセージを伝えられるものにする」まさに俺がやらんとしていることだ。

レコード会社あってのアーティストではなく、アーティストあってのレコード会社だ。そこのところをレコード会社は勘違いしている。いかに儲けるかを優先した結果、「音楽離れ」を生み、加速させたのはレコード会社だ。そのことにリスナーも薄々気付き始めている。だからこそ、自主制作盤CDが注目されるようになった。リスナーが求めているのはアーティストであって、レコード会社ではない。レコード会社が利益を優先して「CD離れ」すればするほど、リスナーは純粋に良い音楽を求めて「レコード会社離れ」して、自分たちの為に良心的なモノづくりをするアーティストを探し求めるようになるんじゃないか?

俺のやり方は間違っていない。そう思わせてくれる嬉しい記事に出会った。