嘘をつかずに、率直に申し上げましょうか?
私が今、本当にしたいことは、中学生がやってるような、救いがたく浅はかで、自己陶酔型の、顎が外れそうに甘美な恋です。
ただし、片想いは、もう、御免ですよ。
昨日、チャリンコを立ち漕ぎしているニキビ面の男子中学生が、人目も憚らずニヤニヤしているのを見て、思いました。
恋だな。やっぱ恋しかないよなあ〜、と。
嘘をつかずに、率直に申し上げましょうか?
私が今、本当にしたいことは、中学生がやってるような、救いがたく浅はかで、自己陶酔型の、顎が外れそうに甘美な恋です。
ただし、片想いは、もう、御免ですよ。
昨日、チャリンコを立ち漕ぎしているニキビ面の男子中学生が、人目も憚らずニヤニヤしているのを見て、思いました。
恋だな。やっぱ恋しかないよなあ〜、と。
彼はやはり駄目っぽい。それから、彼女は、彼女は個人的に、心密かに、大好きな人間だったんだけれども、残念。どうやら、駄目らしい。元々、社会的な尺度で人を見る癖があるのは、何となく気づいてはいたけれども、あそこまでとは思わなかった。彼女の座右の銘はきっと、「長い物には巻かれろ。」なんだろう。本当に、本当に残念だけれど、人間は常に変化する生き物だし、それは私も例外ではないから、仕方がないんだね。
自然淘汰…基本的には、全面的に、神様にお任せいたします。
〈忍従〉
忍従とはロマンティックな卑屈である。
〈危険思想〉
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
〈世間智〉
単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患わずとも好い。それよりも寧ろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。
「日本一どうでもいいバンド」というのを考えてみた。「日本一嫌い」ではなく、「日本一どうでもいいバンド」を考えてみたのである。
「嫌い」であれば、B’zの名が真っ先に浮かぶが、私は、B’zを嫌いではあっても、決して、どうでもいいとは思っていない。一応、「嫌いだあ!」という情熱を掻き立ててくれるし、「何故嫌いなのか」ということを考えさせてもくれるから、これは、「どうでもいい」とは言えない。
「どうでもいい」というのは、もっと、箸にも棒にもかからない、無味無臭の、存在意義が全くわからないという、そういうもののことである。
最初、TUBEを思い付いた。が、あれは、どうでもよくはない。何しろ、夏というイメージだけで、長年、飯を食ってきているバンドである。副業を持たない海の家の親爺みたいで、潔いことこの上なく、考えようによっては、カッコいいとさえ言える。
じゃ、一体、どのバンドが、「日本一どうでもいいバンド」なのか。私は考えた。そして、ついにその答えに辿り着いたのである。
THE ALFEE―彼らである。彼らこそが、「キング・オブ・どうでもいい」である。何故って?それが言えたらキングではないのである。
本来、勝ち負けの問題ではないはずのことが、いつの間にやら勝ち負けの問題になっており、そうして、そうなってしまってからではもう取り返しがつかず、手遅れで、「違うと思うんやけどなあ...。」などと、頭では思いながらも、しかしながら、何故か負けたくはないので、不本意に、口を尖らせながら、ダラダラと闘いはするものの、そんな後ろ髪を引かれながらの半端な体勢では、根から好戦的な相手に勝てるはずもなく、気がついたら負けていて、地団駄を踏む。ということを、何度も何度も繰り返していると、そりゃ、人は、確実に、崩壊します。が、しかし、世の中というものは、えてして、そういう好戦的な人間が幅を効かす世界でありますから、私のような人間は、常に負けっぱなしですし、当然、世の中からは、訴訟、紛争、戦争といったケンケンガクガクとした諸々が、いつまで経ってもなくならない。という理屈に、つい先程、風呂掃除をしながら気付きました。
本日、大宰治の著書18冊を読破した。読破したくなかったけれど、あれよあれよと読破してしまった。
大宰治という人の存在は、私にとって、ジョン・レノン以来の衝撃だった。正直、あれほど好きだった北野武の存在が、私の頭の中から吹っ飛んでしまった。
読破してしまったら、寂しさが残った。でも、今度は、発表年代順に、一冊一冊、じっくり読みなおそうと思っている。
もう一度言う。私は、村上春樹は読まん。絶対に、読まん。冗談じゃない。こちとら誇り高きダザイストだ。熱烈なデカダン支持者だ。ふざけるな。
『ノルウェイの森』だ?ふざけるな。都合良くビートルズを使うな!レノンを使うな!ただのエロ小説じゃねえか。身の程を知れ!ボケが!
前の文章、タイトルも、本文も、エラい頻度で文字化けしてるので、一応、解説、訂正します。
「?」となっている部分が、文字化けしてる部分ですが、私はそこに、英数字の1。すなわち「I」と、2。すなわち「II」を書き込んだはずなのですが、見事に化けてしまいました。
私は、「II型」です。従って、タイトルは、「わたくしマークII」としたかったわけです。
そんなわけで、アルファベットの「I」を使用して、解説を試みたわけですが、了解していただけたでしょうか。
ご推察の程、よろしくお願いいたします。
ここらで私の、例の病気のことについて、少し触れておこうと思います。
随分、病院を転々としました。今、通ってる病院で5軒目です。5軒目にしてようやく良い先生に巡り合えたので、私は、この先生に全てお任せしようと思っております。
私の病気の病名は、正しくは、『双極性障害?型』というものだそうです。俗に言う「躁鬱病」の一種なんですが、一般的に、躁鬱病と言って思い浮かべる、あの浮き沈みの激しいのが?型で、?型は躁鬱は躁鬱でも、躁の部分がほとんど無いものを言うのだそうです。
?型の特徴としては、何かに「依存する」というのがあって、人によって、依存する対象はバラバラで、それがアルコールの人もあれば、ギャンブルの人もあれば、「何かを作ること」というのも、依存の対象になるのだそうです。
何かに依存するのは、沈みっぱなしのテンションを何とか持ち上げようとするからですが、持ち上げたら持ち上げた分、後でドンと落ちるので、そのために、毎日、薬が欠かせないといった理屈です。
私はもう随分良くなりました。ただ、まだ、一つだけ問題が残っていて、それは快方へ向かっている証拠らしいのですが、夕暮れ時のイライラが、時には破壊衝動とも言えるほどに強烈で、これに言うに言えぬ心細さが絡みついた日にゃ、それこそ叫びたいわ、暴れたいわで、時折、非常に辛い思いをするのですが、でも、これさえ治れば、工場でも何でも、職種なんて拘らないから、働きに出ようと思っています。
もう、時間の問題だと、希望的に観測しておる次第ですが、いや、もう本当に、これが峠であると、確信しております。
なお、社会復帰した暁には、とりあえず、ライヴを敢行したいと考えています。というのも、つい先日、伊丹の駅前に、ライヴバーがあることを知ったからです。私の目と鼻の先に、いくつかブラ下がっている夢のうちの一つです。
もうちょい。も〜ちょいだ!
重い話は止そう。今は、あえて、止そう。何せこれは、私のブログだ。私のブログが少しばかり世相に反して、軽妙に跳ねていたって、罰は当たらんだろうし、ひょっとしたら、私のブログは、常時、そういった姿勢を貫くことの方が、正解といえば正解なのかもしらん。自分らしく、いこう。
さて、突然ではあるが、ここ数ヶ月間の私はどうやら、神がかっているらしいのである。
伊丹の市役所で、本の無料取り放題が催されるという情報が飛び込んで来て、大きな紙袋をリュックサックに詰め込んで駆け付けたり、夕方の散歩がてらに、ふと立ち寄ったブックオフで、2時間限定タイムサービスで、本の全品半額セールをやっていたり、また、別の古本屋では、「閉店セール」と銘打って、本が全品50円で売られていたりして、これら全ての幸運が、ここ数ヶ月の間に一気に、怒涛の如くに、私の身に押し寄せてきたのである。
「読め。」もしくは、「書け。」あるいは、「読み、且つ、書け。」と神様がおっしゃっているようにしか思えないので、今、必死こいて、新しい小説を書いておるのだが、これがエラく長いものになりそうな気配なのである。書いても書いても進まない。動く歩道を逆行しておるかのような心境。
現時点で、下書きとして、原稿用紙よりもかなり升目の細かいレポート用紙で、22枚書いたのだが、これでもまだ、全体の半分に満たない。毎日少しずつ少しずつ書き溜めていっているのだが、私の場合はパソコンで書くわけじゃないし、机に向かってボールペン片手にカリカリカリカリと、まるで彫刻でも彫っておるかのような塩梅で、腕が疲れて、ほとんど肉体労働なのであるが、不思議と、情熱みたいなものが途絶えるというようなことは一切ない。これを完成させて、誰かに読んでもらうことを想えば、むしろ、俄然、燃えてくるのである。
前にも書いたように、私が今、書いているものは、私小説的なものなのであるが、現時点で、私の分身ともいえる主人公はまだ、20歳を少しまわったところである。ということは、あと14年分書かねばならないということになる。
『吃聖と白鷺』と銘打ったこの作品を、ただの私小説ではない、新田茘枝独自の形で、何とか上手く纏めあげて、和田一憩の過去の清算(タダでは転ばんぞ!という意志の表明)と、将来への基盤の構築(何が何でも世に出てやる!という決意の表明)とを同時に、確実にやってのけたいと切実に思っている、今日この頃である。