彫刻の日常

重い話は止そう。今は、あえて、止そう。何せこれは、私のブログだ。私のブログが少しばかり世相に反して、軽妙に跳ねていたって、罰は当たらんだろうし、ひょっとしたら、私のブログは、常時、そういった姿勢を貫くことの方が、正解といえば正解なのかもしらん。自分らしく、いこう。

さて、突然ではあるが、ここ数ヶ月間の私はどうやら、神がかっているらしいのである。
伊丹の市役所で、本の無料取り放題が催されるという情報が飛び込んで来て、大きな紙袋をリュックサックに詰め込んで駆け付けたり、夕方の散歩がてらに、ふと立ち寄ったブックオフで、2時間限定タイムサービスで、本の全品半額セールをやっていたり、また、別の古本屋では、「閉店セール」と銘打って、本が全品50円で売られていたりして、これら全ての幸運が、ここ数ヶ月の間に一気に、怒涛の如くに、私の身に押し寄せてきたのである。

「読め。」もしくは、「書け。」あるいは、「読み、且つ、書け。」と神様がおっしゃっているようにしか思えないので、今、必死こいて、新しい小説を書いておるのだが、これがエラく長いものになりそうな気配なのである。書いても書いても進まない。動く歩道を逆行しておるかのような心境。
現時点で、下書きとして、原稿用紙よりもかなり升目の細かいレポート用紙で、22枚書いたのだが、これでもまだ、全体の半分に満たない。毎日少しずつ少しずつ書き溜めていっているのだが、私の場合はパソコンで書くわけじゃないし、机に向かってボールペン片手にカリカリカリカリと、まるで彫刻でも彫っておるかのような塩梅で、腕が疲れて、ほとんど肉体労働なのであるが、不思議と、情熱みたいなものが途絶えるというようなことは一切ない。これを完成させて、誰かに読んでもらうことを想えば、むしろ、俄然、燃えてくるのである。
前にも書いたように、私が今、書いているものは、私小説的なものなのであるが、現時点で、私の分身ともいえる主人公はまだ、20歳を少しまわったところである。ということは、あと14年分書かねばならないということになる。

『吃聖と白鷺』と銘打ったこの作品を、ただの私小説ではない、新田茘枝独自の形で、何とか上手く纏めあげて、和田一憩の過去の清算(タダでは転ばんぞ!という意志の表明)と、将来への基盤の構築(何が何でも世に出てやる!という決意の表明)とを同時に、確実にやってのけたいと切実に思っている、今日この頃である。


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