怜士、ロックンロール・ウェザー誌のインタビューに答える part2

Q 怜士さん、お久しぶりです。

A おう、久しぶりだな。元気だったか?

Q 今回は怜士さんが新しいライヴアルバムを発表されるということで巻頭特集を組ませて頂くことになり、インタビューをさせて頂きたくお伺い致しました。

A 有り難いね。でも、俺が巻頭って事は俺が表紙を飾るわけだろ?売れるのか?

Q 売れません(笑)と言いますか、弊誌はフリーペーパーなので正しくは「売らない」んです。怜士さんの作品と同じですよ(笑)

A なるほど(笑)ま、何でも訊いてくれ。

Q では早速。今回のアルバム『DABADA TV SHOW』には「架空のTV番組で放送されたライヴの模様を収めたもの」というコンセプトがありますが、このアイデアはどこから得たものなのでしょうか?

A 意識したわけじゃないけど、ザ・フーのアルバム『セル・アウト』がヒントになった可能性はあるね。ほら、あれはラジオロンドンっていう架空のラジオ局からの放送っていうコンセプトがあっただろ?俺、あのアルバムが好きで、あれがヒントになった可能性は大いにある。

Q なるほど。私もあのアルバムは好きです。曲間にジングルやCMが入ったりするんですよね。

A そうそう。ニキビに効く薬のCMとかコカコーラのCMが入ったりするんだよな。それも全部フーが勝手に作ったやつ(笑)

Q (笑)

A それから、もう一つヒントになったとすれば、ストーンズの『ロックンロール・サーカス』だな。

Q 60年代に実際に放送されたストーンズのTV番組ですね?ザ・フーやジョン・レノンも出演した。

A そう。あれは架空じゃなくて実際に放送されたTV番組だったわけだけど、90年代に映像はビデオで、音はCDで発表された。内容は全く同じなんだけど、映像と音の両方が発表された。今にして思えば斬新なやり方でも何でもないんだけど、なぜか俺には新鮮に感じられたんだ。

Q あれって、ビデオとCD、同じ音質なんですよね。後にビデオがDVD化されて再発されましたが、そうなると尚更音質に違いがなくなる。ビデオやDVDで十分良い音で、CDを手に入れたからといって映像以上の音が聴けるわけでもないのになぜかCDも欲しくなる。私も「何なんだろうこれは」と思った覚えがあります。同じやり方をしている作品は他にいくらでもあるのに、ロックンロール・サーカスだけは不思議な感じがしました。

A 要するに、「架空の放送」というアイデアはザ・フーからの影響で、同じ内容のものを映像と音源に分けてリリースするというアイデアはロックンロール・サーカスからの影響だと言えるんじゃないかな。ま、俺の『DABADA TV SHOW』の場合は映像がネット配信で、DVD化とかするわけじゃないし、映像と音源で若干内容が違うし、音に至っては似ても似つかないから別物と言えば別物。曲間に何か趣向が凝らしてあるわけでもなく、コンセプトといってもただの「設定遊び」だしな(笑)

Q でも、そのちょっとした遊びが作品の印象を大きく左右するんだと思います。振り幅はリスナーの想像力によると思いますが。

A 同感!

Q ありがとうございます(笑)ところで、前回のインタビューで怜士さんはこうおっしゃいました。「1st『ROCK&REISHI』がギターポップで、2nd『爆弾』がグランジなら、3rd『レッドカード』はパンクだ」と。新作は何だと言えますか?

A さっきまでの話の流れに沿った答えになるけど、「60’s ブリティッシュ・ビート」かな。それこそ、ザ・フーやストーンズ。ビートルズやホリーズの世界だ。これまでで一番アナログな音だし、全体的にハッピーで軽快な感じがある。短くてゴキゲンなナンバーを小気味よくポンポンポンと繰り出すというのは、あの時代のビートバンドが最も得意としたスタイルだよ。

Q つまり、怜士さんにとって原点回帰とも言える一枚なわけですね。

A 原点回帰にして最高傑作だ。

Q (笑)その最高傑作に封入のカードについてなんですが、街頭テレビを取り囲む群衆の写真が使われていますよね。これは?

A ネットで見つけて「これだ!」と思ったんだ。これ以外の写真は考えられなかった。著作権的な問題があるかなとは思ったけど、俺は営利目的で作品を発表するわけじゃないし、作品が人手に渡っても、俺の懐にはびた一文入ってこないんだから関係ない。作品を非売品にしてることの強みが出たよ。

Q 最後に、読者の皆さんに一言お願いします。

A 俺はいつも、「ライヴはオーディエンスのみんなと一緒に作るものだ」と思ってるけど、それをこれまでなかなか形にすることができなかった。でも、今回の作品ではそれができた。俺のライヴで聴けるのは俺の声とギターの音だけ…じゃない。ライヴを観に来てくれたみんなの声があり、ハンドクラップがある。みんなは俺にとってバンドメンバーだ。つまり、俺は今もバンドをやってるんだよ。だから是非ライヴを観に来て欲しい。多くの人に観に来て欲しい。で、また一緒にいい物作ろうぜ!

Q あれ?なんだかちょっとカッコ良過ぎませんか?

A いいじゃないか。どうせこの記事を掲載する君んとこの雑誌だって架空なんだから(笑)


4th LIVE ALBUM『DABADA TV SHOW』完成

断っておくが、4作目となるライヴ盤『DABADA TV SHOW』は単にYouTubeにアップした映像から抜き出した音にマスタリングを施したものではない。全くの別物。映像とは別の機材で別の場所から録音したものにマスタリングを施してある。映像はギターの音が控え目で声が前面に出ているが、音源の方はギターの音が持ち上がっていて、声とギターが同じレベルで聴けるようになっている。似ても似つかない音。

マスタリングを担当したDr.Fが「いつものギャリギャリしたギターの音が今回はマイルドで、なんか、ビートルズっぽい響きになってる」と言ったが、それもそのはずで、実はいつもとは違う弦を張ってあったりする。これまでの作品との音の違いは、そういったことも影響している。

どんなパフォーマンスだったのかについては映像を観てくれれば良いし、どんな音だったのかについては音源を聴いてくれれば良い。あくまで映像は映像。音は音。

アルバムは初回生産分(僅少!)のパッケージングを終えて完成している。が、今のところライヴの予定がないので、リリース時期については未定。問題は次の一手。この新作を引っさげてどう撃って出よう。これまで通りのやり方でいくのか、それとも…。

FA宣言をして残留か移籍かに揺れる野球選手の心境…と言えば聞こえは良いが、誰からも引き留められたり誘われたりしていないのに勝手に揺れてるあたりがキュートだ。


残す

少し早めのクリスマスプレゼント。Dr.Fから件の品が届いた。

alphabet’sのライヴ映像が3種(VHS+DVD+ブルーレイ)と、その映像から音を抜き出してマスタリングを施したCD。それから、和田怜士の新しいライヴ盤『DABADA TV SHOW』のマスタリング盤。計5点の品がエアクッションに包まれて、Amazonの箱に梱包されて届いた。まるでAmazonで注文した『和田怜士BOX』が届いたかのよう。

我が奥さんの寝室には俺がソロで活動を再開してから作った15枚の音源がずらり並ぶ。考えてみれば僅か2年半で15枚も作ったんだな。

音楽やってる人はみんな本当にライヴが好き。何の疑いもなく無邪気に「音楽=ライヴ」だと信じている。それはそれで良い。俺がしのごの言う事ではないし、素晴らしい事だと思う。でも俺はやっぱり、厳密に言えば、ライヴよりも作ることの方が好き。見ることも触れることもできない音を、音楽を、見ることや触れることのできる「形」に寄せていくのが好き。

ライヴやってりゃ何とかなると思い込んでいる人たちの中にあって、俺は「作ってりゃ何とかなる」と思っている。が、結果的にはどちらも何ともならないかもしれない。

百歩譲って、五万歩譲って、何ともならなくても良い。

俺の中にあるのはただ、「俺のは意地でも残すんだ!」という偏執的な想いだけだ。


愛を感じて

バニーさんのワンマンライヴを観てきた。

23曲。2時間弱のステージ。素晴らしかった。

やっぱり、バニーさんの音楽の軸にあるのはストーンズだと思った。ラフでルーズでブルージー。そこにディラン的な詩人のムードが漂っていて、言葉が、日本語が沁みてくる。

バニーさんに比べると俺の音楽は輪郭がはっきりしているなと思った。俺の音楽には、バニーさんの音楽にあるような「輪郭はアンタらが自由に思い描いてくれ」というのがない。俺の音楽にあるのは「これが輪郭だ」だ。輪郭を聴き手の自由に任せる–やってみたいけど、俺にはできない。俺がやったら、ラフでもルーズでもなく「雑」とか「下手」とか言われるのがオチ。ラフ&ルーズは難しい。

会場に流れていたBGMはバニーさんが作ってきたものだった。バニーさんが好きなアーティストの曲が次から次に流れて、それは清志郎だったり、ポール・ウェラーだったり、プライマル・スクリームだったりしたのだが、バニーさんがステージに立って、いよいよライヴが始まるという段になった時、一際大きな音で流れたのはやはりストーンズだった。

ステージに立ったバニーさんが着ているTシャツには、キース・リチャーズの顔写真がプリントされていた。


ハイライト

昨日12月6日は亡き親父の69回目の誕生日だった。

ストーンズのベロみたいなもので、親父といえばこれ、ハイライト。「誕生日ぐらい吸いたいもん吸いなはれ」と言って供えて手を合わせた。

恐ろしくストイックな画家だった。

「ものつくり(芸術家)として生きろ」という言葉。親父から言われた言葉で息子として守っているのはこの言葉だけ。あとは知らん。知ったこっちゃない。

親父は黄色が好きだった。実際、ゴッホの「ひまわり」みたいな人で、つまりは太陽のような人だったのだが、いかんせん息子は赤が好き。限りなく黒に近い赤が好きで黄色が大嫌い。

いかに激しく燃えたとて太陽にはかなわない。わかってる。それを重々承知の上、赤く、熱く、生きていきたい。


横と後ろから

前記事に登場した「旧友」というのは他でもない、現在、我が海賊ライチrecordsでサウンド・エンジニアを担当してくれているDr.Fの事なのだが、彼が今、マスタリング作業に当たってくれているのはalphabet’sの音だけではない。並行して、新しいライヴ盤『DABADA TV SHOW』にも手を施してくれており、二つの作業が完了したら二つを同封して、俺の元に届けてくれる手筈となっている。これはつまりどういう事かというと、同じ日、同じ時間に、過去の自分と現在の自分がやって来るという事なのである。

スピーカーにせよヘッドホンにせよ、左右から来る音を聴くことには慣れているが、横からだけではなく後ろから来る音を同時に聴くのは初めての事だ。


alphabet’s再結成!?

「発掘映像」とか「発掘音源」って、俺にはまだまだ無縁だと思っていたのだが、この度、俺がかつて在籍した3ピースバンド『alphabet’s』が16年前に扇町dice(現・扇町para-dice)に出演した際の映像が発掘された。旧友が保管してくれていたのである。

バンドが扇町diceに出演したのは後にも先にも一度だけ。まだ結成して間もない、ライヴ活動を本格化し始めた頃だった。1度しか出演しなかったのはドラマーが「ステージから客が見えない」と言い出したからなのだが、個人的にはその意見に「?」だった。

バンドはライヴの度に映像を撮っており、一人一本ずつテープを所有していた(そのほとんど全てが劣化、紛失などの理由から現存していない)。その、当時最新の一本を自分の手元に残さず旧友に渡したのだから、よほど自信があり、観てもらいたい一本だったのだろう。

今回発掘された映像は、旧友によってまさかのマスタリングが施されて(写真はその作業風景)DVD化され、近日中に俺の手元に届くことになっている。

バンドの自己評価よりも周りからの評価の方が高かったalphabet’s。現実的には99.9%実現しない再結成だが、この映像をある種の再結成だと捉えて、再検証してみようと思っている。


『DABADA TV SHOW』解説

1.伊丹DABADAで逢いましょう

カットした1曲目「未来へ」の最後のコードがEで、この曲の最初のコードがE7なので、間を空けずに繋いで、一気になだれ込んだ。この曲はいつも通り、英語のようで英語でない英語でメロディーを作って、後から日本語詞に置き換えて完成させたのだが、たまにその日本語詞をまた英語のようで英語でない英語に戻して口ずさむことがある。そのたびに良いメロディーだなあ…と自惚れる。

2.バンドマン・ロック

24歳の時に書いた曲。ライヴでは久々に披露した。一部、歌詞を間違えて歌っている。「あらゆる偶然、いわゆる奇跡」と歌うべきを「いわゆる偶然、いわゆる奇跡」と歌ってしまっているのだが、歌詞を間違えるなんて日常茶飯事。この程度のミスは痛くも痒くもない。

3.果物をてんこ盛った巨大なケーキ

今のところ、ギターにカポをはめるのはこの曲のみであるから、俺がおもむろにカポを取り出したらこの曲が始まるサインである。間奏前に「イェーッ!」と叫ぶ俺の目の前にいるのは同じタイミングで俺に向かって「イェーッ!」と叫ぶ我が奥さんであり、それを見てワチャワチャ盛り上がっていたのは我が奥さんと同じテーブルを囲んでいたボーカルグループぱあるの皆さんなのであった。

4.バタフライ

いまだかつて一度もセットリストから漏れたことがないが、今回はライヴ当日、それも「果物を〜」を歌い終えるまで演るつもりのなかった曲。急遽これを演ることによって初めて35分の持ち時間に8曲演ることになったのだが、トータルタイムはまさかの28分弱。これは、最近の俺の曲がいかにコンパクトにまとまっているかということの証であって、嬉しい限りである。

5.グラサージュ

初披露の新曲。中盤の「君は友達、負け犬じゃない」の所でこみ上げてくるものがあって難儀した。これを聴いてもなお、俺をメロディーメーカーとして認めない人がいたら、それはもう完全に耳が腐っている。

6.ストーカー

演奏を始める前に俺が指差しているのは、小1からの友人Kやんである。この曲はバンドじゃないと再現できないと思い込んでいたのだが、Kやんからのリクエストに応えて、あえて一切練習をせずに(この曲は練習したらアカンのだ)、本番に臨んだ。「ストーカーって行動はアカンけど気持ちはわかる。誰だってホンマに人を好きになったら気持ちはストーカーみたいなもんやろ」という、昔、うちの親父がふと漏らした言葉が曲の題材となっている。

7.アニマ hold me tight

22、3歳の時に書いた曲だが、歌詞が変化し続けて、最終的に完成したのは今年のことである。昨年から佐野元春に傾倒。曲に「語り」を挿入するというテクニックに興味を持つようになったことが功を奏して大きく化けた。「アニマ」というのは「男性の中の女性性」という意味の心理学用語で、アニマの存在に気付いて抱き締めてもらうことができれば自分はもっと強くなれる。生き残れる。生き残りたい!と歌っている、説明しないと誰にも分からないし、説明しても誰にも分からない曲。


YouTube擁護論

音楽やってる人が「YouTubeは音が悪いから嫌い」みたいな事を言ってるのをたまに聞く。そういう人に限って検索すると何本も映像が出てくるんだけど…。

「音が悪いから嫌い」か…。音が悪いからこそ良いんじゃないかと俺は思うんだけどな。「実際はどんな音を出してるんだろう」という想像の余地を残せて。もし、音がめちゃくちゃ良かったら俺は利用しないと思う。そこで全てを出すのはもったいないから。

YouTubeはあくまで映像。本当に聴かせたい音は音源を作って聴かせればいいし、生の臨場感を味わわせたいのならライヴで食らわせればいい。ただ、音源を聴いてもらうにも、ライヴを観に来てもらうにも、自分の存在と音楽を知ってもらわないと話にならないから、不特定多数の人たちに向けて名刺代わりに映像を配信するのは有効な手段だと思う。実際に、ライヴ会場で初対面の人に「YouTubeの映像全部観てきました!」と言ってもらった事があるけど、なんと嬉しかったことか。

だいたい、タダで利用させてもらっておきながら音が悪いもヘッタクレもない。図々しいにも程があるよ。


PAINT IT,WHITE〜白くぬれ!〜

オシャレな人がオシャレに見える最大の理由は「オシャレに気を遣っている感」が出ているからで、ダサい人がダサく見える最大の理由は「オシャレに気を遣っている感」が出ていないから。基本的には、ただそれだけの事だと思う。

映像にも音源にも「オシャレに気を遣っている感」は必要不可欠。撮影したものを撮影したままの状態で出す、録音したものを録音したままの状態で出すというのは、「人は外見じゃない。中身の問題だ」といい歳をして大きな声で言っているのと同じくらい間抜けな事。音源を発表するのなら、音質はもちろん、ジャケットのデザインも物凄く大事だし、ネットに映像をアップするのなら、同じような映像が続いていないかとか、ズラッと並ぶ映像の表紙(サムネイルとかいうやつ)のコントラストはどうかということにも気を遣うべきなのではなかろうか。

手抜きなのか手抜きでないのか。あえて手抜きなのかただの手抜きなのか。「感」は醸し出すもの。

絵の具で絵を描くとする。背景が白だからといって画用紙の白をそのまま使うのがダサい人で、画用紙は確かに白だけど、そこにちゃんと白い絵の具を塗るのがオシャレな人なんだと思う。