顔の穴

ソロでやりだしてからというもの、常に歌詞を考えているような気がするのだが、最近もまた、歌詞を書き直して復活させねばならんのが一曲あるのを思い出して、頭の中が言葉でいっぱいになっている。

歌い出しはすぐに閃いた。

「ゴミはゴミ 優劣はない 例えばお前の歌」

これを重いバラード調のメロディーに乗せてみようと思っている。

昔は、メロディーの雰囲気に言葉を沿わせることしか知らなかった。メロディーがラブソングっぽかったら恋愛の歌詞を書いて、メロディーがパンクっぽかったら怒りの歌詞を書いていた。でも最近は、メロディーの雰囲気に対して言葉の内容をずらすことを覚えた。優しいメロディーに怒りの言葉を乗せたり、怒りのメロディーに悲しい言葉を乗せたりすることで曲に奥行きができて、何度歌っても飽きのこないものが作れるようになった。

ま、人間って、目と鼻と耳と口が繋がっているように、全ての感情もどこかで繋がっているものだから、ずらしているようでずらせてないし、メロディーの雰囲気と言葉の内容が完全に一致していることの方がどこか不自然だとも言えるんだろうけどね。


野蛮な外人

謙虚とか謙遜とか、日本人が「日本人の美徳」と呼んでいるものが日本人の人生を窮屈なものにしているような気がしてならないから、私は、少なくとも、音楽をやっている時の自分の中からは、そういったものの全てを一掃したいと思っている。ある種、外人で良い。

言いたいことを言う。誤解を恐れず、誤解されることを楽しむ勢いで、はっきり主張する。腹の底から声を出す。ギターは全力で叩きつけて一音一音しっかり鳴らし切る。

中途半端な言葉を選ばない。

中途半端な声を出さない。

中途半端な音を出さない。

音圧で勝負するしか能のないバンドには「圧」そのもので対抗して完璧に勝つ。

巨大な感情の塊を両手で頭の上まで抱え上げて客席に叩きつける。

私がロックを好きになったのは、ただ音楽が好きになったわけじゃない。音楽そのもの以上に、姿勢やスピリットに惚れたのだ。

まったくもってどいつもこいつも中途半端だ。

かかってきやがれ!

片っ端から叩き潰してやる!!


或る一般人の手記

さほど猿顔でもないのにチンパンジー呼ばわりされるというのは、やはり僕が純然たる一般人だからなのだろうか…などとくだらないことを考えている暇が今月と来月の僕にはない。

僕は今年32歳になる。家の近所の小さな工場に勤めていて、仕事中は誰とも口をきかず、黙々と「これこそ機械にやらせるべき仕事なんじゃないか?」という疑念と闘いながら、絵に描いたような流れ作業をこなしている。風貌は冴えないし、特にこれといって取り柄もないけど、実はそんなに暗い人間でもない。ただ、中途半端な人間関係ほど面倒臭いものはないと思っているから、暗い人間を演じて、それでも自分に近づいて来てくれる人が現れるのを待っている。

こんな、人間としてややこしく、面倒臭い僕のような人間にも趣味はある。ややこしく、面倒臭い人間だからこその趣味がある。

ロックを聴くことだ。

僕がロックを聴くようになったきっかけは、15年程前、さほど親しくない友人に半ば強制的に連れて行かれたライヴハウスで、ある3人組のバンドを観たことだった。「なんだこれは!」と思った。衝撃的だった。そのバンドはそれから1年も経たない内に解散してしまったけど、僕は、そのバンドのギターヴォーカルの人の動向を追い続けた。そして、その人のブログを通して、世界には良いバンドがいっぱいいるんだということを知って、ロックが大好きになった。特にイギリスのオアシスというバンドが好きになったんだけど、オアシスも数年前に解散してしまった。

今月と来月、僕は忙しい。僕の魂は忙しい。というのも、オアシスの眉毛の繋がった兄弟が今月来月と立て続けにアルバムを出すからだ。弟が今月で、兄が来月。最近の僕の労働意欲はまさにこの10月11月への期待に支えられてきた。最近の僕には、機械にやらせている仕事を横取りしかねないほどの労働意欲があった。でも、僕の労働意欲を駆り立てたのは、眉毛の繋がった兄弟だけじゃない。弟と兄の間にもう一人いる。あの時、3人組のバンドのギターヴォーカルだった人が、弟のが出た後、兄のが出る前にアルバムを出す。そして、そのアルバムをひっさげてライヴをやるらしいから僕は何が何でも観に行かないと駄目なのだ。観に行かないと、一体何の為に日頃頑張って働いているのかーということになってしまう。

3枚のアルバムを聴いて、10月と11月が終わったら、僕の労働意欲はまた元の大きさに戻ってしまうのだろうか。萎んでしまうのだろうか。機械に仕事を譲りたくなってしまうのだろうか。いや、たぶん、そんなことはない。だって、あの3人の3枚のアルバムを聴いたら、ギターが欲しくなるに決まってるから。

え?3人組のバンドのギターヴォーカルだった人の名前?

あの人、随分長いこと音楽から遠ざかっていたし、まだ誰も知らないと思うけど、和田怜士っていうんだよ。


VS

リアムのアルバムの発売が2日後に迫った中、兄ノエルの3rdアルバムの発売日が来月11月22日に決定した。

プロデューサーが「もの凄いアルバム。これが出たらイギリスはヤバいことになる」と発言し、ノエル自身も「俺、ヤバいくらい天才」と言っている。

リアムの後ろで何かが蠢いている。そして、ジリジリ追いかけてくる。「志村、後ろ!」ではなく「リアム、後ろ!」な状況。

リアムとノエル、ギャラガー兄弟。二人のアルバムが全英チャート1位に輝くことになるのは、まず間違いないことだと思う。そして、そうなれば、完全に歴史的快挙だが、ま、「ビートルズを越えてやる」と言って現れて、本当にビートルズの記録を塗り替えてきた二人だから、そんなことくらい、朝飯前だろう。


爆音スランプ

ロックバンドというものをこよなく愛しておきながらこんなことを言うのも何だが、最近、ロックバンドってうるせえな…と思う。

「爆音」を売りにしているバンドが多い。本当に多い。多過ぎる。ま、音がデカいのはいい。ロックなんだから別にいいんだけど、ヴォーカルの声が聞こえなくて、何言ってるんだかさっぱりわからない…というケースが多々。爆音に勝てる声を持ってないんだったら、もっと他にやり方を考えるべきではないのか?という素朴な疑問が私の中でわだかまる。

ライヴが終わって、ヴォーカリストがやりきった!出し切った!という誇らしげな表情を浮かべてステージから降りてきて、肩で風を切るように私の側を通り過ぎていく。私としては、拍手をしようにも何に対して拍手すればいいのかわからなくてモヤモヤする。

一体、何のための爆音なんだろう。

下手な料理人ほど無駄に砂糖を使うという話を聞いたことがあるが、やっぱり、何かをうやむやにしたいのだろうか。

世の中のうやむややモヤモヤを吹き飛ばそうとした時に本領を発揮するロックがうやむやでモヤモヤじゃ話にならないよ。


3

早くも「傑作」と評されているリアム初のソロ・アルバムの発売が3日後に迫って、私は気が気でない。

当然ながら、今月号のロッキンオンの表紙&特集はリアム。

半引退の引きこもり状態から脱出。バンドへの妄信を捨てて、サポートメンバーを従えたソロ名義で復活したリアムの言わんとしていることはいちいち頷けるもので、いちいち最近の私が考えていることと被っていた。

オアシスの再結成という「奇跡」でも起こらない限り、リアムはもう二度とバンド名義では活動しないと思う。私も、よほどの奇跡が起こらない限り、バンド名義での活動はしないと思う。

サポートメンバーは喉から手が出るほど欲しいけどね。


追憶のジプシー

一年程前までたまに足を運んでいた近所の居酒屋が潰れていた。料理は決して不味くなかったのだが、店を切り盛りするオヤジが無愛想過ぎて、いつも閑古鳥が鳴いていたから仕方ない。

潰れて、取り壊されていく店を見て、「閑古鳥が住み着くと潰れてなくなるのはバンドと同じだな」と思った。客を増やせない、結果の出せない状況が続くと、バンドも居酒屋と同じように潰れてなくなる。

その点、バンドという店構えのない私は大丈夫だなと思う。結果なんて、徐々に出していけばいい。誰も「やめる」なんて言い出さないんだから、変に焦って、妙な方向転換を迫られる心配もない。自分の信じた道を、試行錯誤を重ねつつ、頑なに突き進むのみだ。

ところで、昔、大阪に住んでいた頃、近所の商店街に夜になると出没する占い師のオヤジがいた。「易」と書かれた布を敷いた小さな机の上に、箸のような棒が何本か入った丸い筒を置いて、茶道の人のような格好をして背筋をピンと伸ばして座っているのだが、客が立ち止まっているのを見たことは一度もなかった。

オヤジは、特に切羽詰まっている様子もなく、実に飄々と、客を求めて商店街中を移動し続けた。銀行の入口の真横に座って撤去を命じられると、その翌日にはマクドナルドの入口の真横に座って早々に撤去を命じられていた。「次はどこへ行くんだろう」興味は尽きず、しまいには心ひそかに応援してしまっている自分がいた。

私はあの占い師のオヤジのようなもの。客と評価ときっかけを求めて彷徨い歩くジプシー。やめるやめないの判断を下すのは常に自分。メンバーの脱退という不意の横風に煽られて奈落の底に転落する心配はない。揺るぎない自信と、いつか必ず巻き返してやるという気概さえあれば、やめる理由はない。続けていける。

あのオヤジは今も闘い続けているのだろうか。


大食漢の恍惚

生きていると色んなことがある。嬉しいことや楽しいことばかりではない。腹の立つことや、悲しいこともある。喜怒哀楽のどれにも属さない、「何とも言えない」としか言いようのない気分の時もある。

生きていると色んな自分を知る。良い自分ばかりではない。悪い自分の時もある。最高な自分もいれば、最低な自分もいる。

音楽やってて、芸術やってて本当に良かったなと思うのは、どんな状況にあっても、心のどこかで「おいしい」と思えている自分を感じる時。

嬉しいことも楽しいことも腹立たしいことも悲しいこともイケてる自分もイケてない自分も、生きていて感じることの全てが、音楽にとっては、芸術にとっては、何一つ無駄にならず、ただひたすらにおいしい。何を食ってもおいしいので、ついつい食べ過ぎてしまう。食べ過ぎて、ついには気分が悪くなってくる。気分の悪さがピークに達して、我慢できず、吐く。そして、吐いたまさにその時、その瞬間、自分でも信じられないくらい良い曲が生まれたりする。


ゴミと宝石

以前、ある頭の悪い人が頭の悪いことを言った。

「売れてもいない人がアーティストを名乗るのはおかしいと思う」

私は言った。

「もし、売れてない人が描いた絵を「絵」と呼ばないのなら、売れてない人がやってる音楽を「音楽」と呼ばないのなら、そうやろね」

芸術作品というのは、衣食住のどれにも属さない。だから、存在意義のないものはゴミで、存在意義のあるものは宝石で、宝石を作ることができる人のことを「アーティスト」と呼ぶんだと思う。

売れてるけどゴミしか作れない人もいるし、売れてないけど宝石を作れる人もいる。宝石を作ることができるのなら、売れてようが売れてまいがアーティスト。

アーティストはただ、世の中の人たちが、ゴミと宝石の見分けをつけることのできる眼を持っていることを信じて、自分にしか作れない色形の宝石を作り、磨き続けるのみ。

もし、どうしても「アーティスト」と呼びたくなかったら、「錬金術師」と呼んでくれ。