アナログアナーキー・イン・ザ・商店街

何事も、2歩目は即踏み出すというのが、私のモットーであるから、早速、2本目を記す。

最近、私は生活の中のちょっとしたことに変化を、個人的な美学を、添えて、加えて楽しんでいます。
テーマは「アナログ」です。アナログ感を吟味し、突き詰めることで、俗世間からの浮遊感を噛みしめておるわけです。

今回、語ろうと思うのは、『煙草』に就いてであります。これは、常時、片時も放さず持っている物だけに、これに付随する何かをちょっと変えるだけで、生活の色彩的なものが微妙に、しかし確実に、変わるのです。そこで、私はまず、銘柄を完璧に『ゴールデンバット』に変更しました。ゴールデンバットは大昔からある煙草で、芥川龍之介や、太宰治の小説に「バット」という洒落た略名で登場して、当時の文豪の心持を少なからず味わえるし、パッケージが矢鱈とカッコいいにも関わらず、このご時世に200円は極めて安価で、なおかつ美味いんだから、文句ナシにオススメの逸品である。次に、私が煙草に関してこだわっているのは、「火」である。バットに火をつけるのに、100円ライターは、無い。ダサい。やはり、バットには、明治〜大正テイスト溢れる色調で、桃や、象や、鳥の図柄が描かれていて、その上下左右に、角張った字体で、「品質特撰」とか、「登録商標」とか、「兼松日産農林株式会社」とか書いてある箱に入ったマッチがよく似合う。
マッチはポイ捨てしても、100%土に還るから、罪悪感が無くて良い。バット自体も、両切りの煙草で、フィルターが付いていない分、100%土に還るから、何の躊躇もなくポイ捨てが出来て良い。

随分アナーキーなことを言うようだが、私は煙草のポイ捨てが大好きな、所謂、「ポイ捨て愛好家」であって、景品丸出しの、ビニール製の、貧乏臭い携帯灰皿などを持った奴に注意されると、そいつの眼球に根性焼きを喰らわせたくなる。

目玉焼き。

煙草やマッチのポイ捨ては、文章に於ける、「、」や「。」に似て、生活に心地好いリズム感、流れを生み出してくれるから、精神衛生上、欠かせない。

ところで、アナログなものは全て、どこか土の匂いがする。デジタルなものには無い、独特の、人間臭さがある。だからポイ捨てができる。従って、人間も、ポイ捨て可能だと言うことができる。人間も100%、土に還るからだ。でも、人間の場合は、土に還るまでの過程が恐ろしく長く、また、視覚的にも極めてグロテスクな行程を辿るので、ポイ捨てするには余程の気合いを要するが、「それ、気合いの問題か?」と問われれば、返す言葉に窮し、閉口せざるを得ないので、どうせ閉口するのなら、バットでも口にくわえておれば少しは、格好もつくというものだが、そこへ、実際に、無闇に気合いの張った、筋肉隆々、チャックウィルソンみたいな眼をした奴が現れて、バットをくわえた私を軽々と抱きかかえて、ドーン!などと叫びながらポイ捨てされた日にゃかなわん。というのが人情というもので、人情は人間臭さの極みで、従ってアナログで、ポイ捨てしても100%土に還ること請け合いなのだが、そうやって、人情がいともたやすくポイ捨てされているにも関わらず、誰も何も言わんから、全国津々浦々、昔ながらの商店街が姿を消していくので、私は、商店街では、煙
草、及びマッチのポイ捨ては絶対にせん!と、心に強く誓って、生きてきたのであります。

商店街に、コンビニは、要らんね。要らんけど、コンビニは、あれは、どう見てもデジタルやから、ポイ捨てできひんから、厄介やね。


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