「笑い。これは、強い。文化の果ての、花火である。理想も、思索も、数字も、一切の教養の極地は、所詮、抱腹絶倒の大笑いに終わる。」
これは、『人間失格』のイメージしか無い人には信じ難いかもしれないが、太宰治の言葉である。彼は、太宰治という男は、「笑い」というものに、とてもうるさい男だったのである。
真の笑いというのは、心の闇や、苦悩、煩悶や、涙から出てくるものだと思う。だから、口癖が、「前向きに!」だったりする、思慮浅い、常にニヤニヤしている、無闇に声のデカイ、ポジティブ思考満開愚鈍野郎には、絶対に、笑いはわからないと思う。
理解らないと思う。
ポジティブ思考満開愚鈍野郎を笑わせるには、「プー」で十分だ。屁音で十分だ。ストレートが有効だ。気を利かせてちょっとでも変化球を投げようものなら、はにゃあ?みたいな顔をして見送られるのがオチだから、屁で、「プー」で十分だ。
あと、常に眉間に皺を寄せているような、まるでその皺を誇示して歩いているような、シリアス野郎にも、笑いはわからないと思う。シリアスであることを良しとしている人間には、笑いはわからないと思う。笑いは、シリアスな自分を隠そうとした時に出てくるものだと思う。極端に言えば、「照れ隠し」が、笑いの源泉だと思う。
ポジティブな思考を全面的に支持するつもりは、毛頭ない。同時に、ネガティブな思考を全面的に否定するつもりも、毛頭ない。ただ、「照れ隠し」しようとするところの『品』に於いて、私は、人を見る。
人間、やっぱり品の問題だ。品のある奴は面白いんだ、本当に。いつも、腹の底から笑わせてくれるよ。