冷淡

5年前、大阪で暮らしていた私は、無資格未経験で介護の世界に飛び込んだ。毎日が恐怖と緊張の連続で、出勤の途中にえづいて吐きそうになったことが何度もあった。先輩が、それがたとえ2週間の差であっても、完全なる天才に見えた。わずかに一人だけ、先輩ではあるが12歳下の、人格的に腐り切ったオカマゴミ野郎もいたが、他の先輩は皆、尊敬に値する人たちばかりだった。とりわけ、「主任」「リーダー」といった役職にあるベテランは、技術や知識だけではなく、そのオーラというか、雰囲気というか、在り方に触れるだけでも勉強になった。

豪胆の中に優しさがあり、豪胆の裏に冷淡があった。「介護士なのに冷淡?」と思われる方もあるかもしれないが、たぶん、介護士「だから」冷淡なんだと思う。

存在そのものー顔とか身体といった物理的に目に見える部分に優しさや豪胆が顕れている一方で、本当の自分、人格がその後ろに、まるで背後霊のように、目に見えない形で隠れて立っているのを感じた。そして、そうやって、本当の自分、人格を表の顔から分離させているということを私は「冷淡」と呼んでいるのかもしれず、冷淡を持ち合わせているベテランは、どんな状況にあっても軸がブレず、動揺することがなかった。

早い段階で「絵に描いたような優しさだけでは駄目だ」ということに気付けたことは、私にとって明らかにプラスだった。でも、気付けたからといって、自分もすぐにあの冷淡を身に付けられたかと言うとそれは別で、いまだ一向に身に付かず、些細なことでいとも容易く軸がブレて動揺してしまう自分を日々痛感しているが、今後も介護の仕事を続けていきたいからには、少しずつでも良いから、確実に、あの冷淡を身に付けなければどうにもならん。身がもたんぞ!と思っていて、もし今、私が腕にタトゥーを入れるとすれば、「冷淡」ーこれしかないだろうと思っている。そして、「冷淡」の上に「麒麟」と彫って、入浴介助の度に「間違えてるで!」と突っ込まれてやろうかとは思っていない。


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