片方の耳元では悪魔が囁いていて、もう片方の耳元では天使が囁いている。―という画を、よくテレビなどで見かけるが、何故、あの画に於ける葛藤のテーマはいつも、「いかに悪魔の誘惑に打ち克つか。」なんだろう。一体誰が、いつ、何の権限があって、その思考の流れだけが、「葛藤」と呼ぶに相応しいと断定したんだろう。中には一つくらい、「天使の言を容れた方がそりゃ、体裁は良いだろう。しかしながら、そこをあえて、体裁が悪いというリスクを冒してまでも、悪魔の言を容れることができるか。」というテーマがあっても良さそうなもんじゃないか。
悪魔の言を容れて動いた場合、背徳的な感覚は常につきまとうし、、だから当然、自己嫌悪に陥ることも多々あるものの、そんなこんなのリスクをひっくるめて背負い込んでも良い!と思えるくらいのリターン=生きた心地を味わえるのは、一体、何故なんだろう。そうして、何故、天使の言を容れた場合には、確かに体裁は良いものの、それだけと言えばそれだけで、ちっとも楽しくなく、生きた心地を味わえないんだろう。
煙草、酒、駄菓子屋の菓子、コーヒー…どういうわけだか、身体に悪いものに限って、美味くて依存性が強いというのと同じ理屈なのだろうか。
そういえば、悪魔の囁きは「誘惑」と呼ぶが、天使の囁きは「誘惑」とは呼ばない。天使の囁きはどちらかと言うと、「説教」に近い。
誘惑と説教。―いずれも、いざやろうと思えば、労力とテクニックを要するということに於いては変わりないが、どちらがより魅力的で、人を惹き付けるのかというと、これはもう、言わずもがなで、例えば私なんかは、女性に説教されることよりも、女性に誘惑されることの方を好む。