或る日、最旧友が私にこう言ったのである。
「動物に例えたら、お前は完璧に猫やな。ほんで、俺は犬やわ。」
最旧友は、この言葉の真意について、事細かに解説してくれたのだが、私には、その解説がいちいち腑に落ちて、目から鱗の有り様で、この時、私は、一種の覚醒というものを体験したのである。
その時、私の目には彼が占い師か何かに見えた。さすがは最旧友だけあって、その分析にいちいち説得力があり、私の性質を見事に見抜いていたのである。
そう、吾輩は猫である。考えてみれば、私に犬的要素など皆無で、その証拠に私は、「窮屈」ということを極端に嫌うし、人付き合いに於いても、年上だからどうした、年下だからどうした、関係あらへんがな。などと、妙に縦社会を忌み嫌う傾向があり、そうやって、一見、唯我独尊のようでありながら、その実、実に甘え上手なのであって、これらの分析は全て、この最旧友によるものなのであるが、悔しいけれども、全て正解であると認めざるを得ないというのが本音なのである。
ここ数年間の私の困難、苦悩、煩悶は、全て、私の自己分析の誤りから来ていたようである。私は、自分では、吾輩は犬であるとばかり思っていた。そうして、私は、猫嫌いの犬好きであるとばかり思っていた。それを、最旧友は「逆だ」と指摘してくれたわけで、私は、彼のおかげで、いくらか寿命の伸びた心地である。
狭い庭に小さな小屋が一つあり、その小屋に首輪と鎖でもって繋がれている猫が、「おっかしいなあ〜。何でこんなに窮屈なんやろ。」と連日首を傾げている。本人はワンと吠えているつもりなのだが、実はニャアと鳴いている。小屋の前で足を止める人間は、どいつもこいつも頭ではなく、喉を撫でてくるし、飼い主から提供される餌は、どういうわけだかいつも、固いドッグフードばかりで、ぺディグリーチャムやモンプチなんて食ったこともない。また、散歩についても、全く意のままにならず、時刻、ルートなど、全て飼い主の都合で決められ、飼い主が、教習所の教官のようにずっと自分に同行し、見張っている。あと、何故か無性に鼠が気になるが、鼠はこちらを見てニヤニヤ笑っている。ムカつくので、ワンと吠えるが、実際はニャアと鳴いていて、迫力に欠け、鼠は抱腹絶倒し、猫は日を重ねるごとに自信を喪失していく。
どうもおかしいと思ったら、どうも何もかもが不本意だと思ったら、吾輩は猫だったのである。