偶然と心と石

人生を面白くする方法。本当は無数にあるんだろうけど、俺は少ししか知らない。その「少し」の中の一つに「偶然をただの偶然だと捉えない」というのがある。人生は無数の偶然が折り重なって成り立っているが、全ての偶然には理由と意味がある…と考えて想像を膨らませると人生に滋味が出てきて、ほのかに面白さを感じられるようになる。

偶然にただの偶然はない。と言うと、「何の根拠があってそないな馬鹿げた事を。お前は夢遊病者か。偶然は偶然やアホンダラ」と鼻で笑う奴が現れる。で、そいつが会話の中で「心から」とか「心の中で」とか言うたびに俺は思う。「『心』の根拠は?お前は人間は身体と脳みそと心臓さえあれば動くと思っとるんやないのか?」と。

ところで石。俗に言うパワーストーン。あなたは嫌い?俺は好き。単純に綺麗だし、想像が掻き立てられる。それから、それより何より、偶然がただの偶然でしかなくて、人間は身体と脳みそと心臓があれば動くと思っている人たちに言わせればどんな石もただの石で胡散臭いったらないんだろうから好き。嬉々として身に付ける事で、あいつらに「寄るな」と言える魔除け。

偶然と心と石。他にも題材は色々とあるけど、とりあえずここではこの3つに絞るとして、想像力というのは、この何の関連性もない様に見える幾つかのものを一つの見方、感じ方で貫いて繋ぐ串の様なものだと思う。で、それに手を加えて人が魅力的だと感じる形。例えばこんな感じに仕上げることが出来たら…

アーティストだと思う。


断捨離のススメ

最近、欲しい物が無いな…と思っていたら、自然と、要らない物を譲ったり売ったり捨てたりする事の方に執着するようになった。思うにこれは、欲しい物ではなく必要な物を求める気持ちが出てきたという事である。

欲しい物=必要な物ではない。欲しい物を訊かれて答えるのは簡単だが、必要な物を訊かれて答えるのは難しい。意外に人は自分にとって何が必要なのかを知らない。皆、知っているつもりでいるが、おそらくそれは、必要な物ではなく欲しい物だ。

要らない物を処分する事でできた空間に何処からともなく舞い込んで来る物。何じゃこら?手に取って、しばらく考えて、頭上に電球が点る。「あ、これ必要なもんや!」

呼吸に例えれば、欲しい物が吸って得るものなら、必要な物は吐いて得るもの。原理としては、水泳の息継ぎに似ている。小学生の時、先生に言われた。「お前は吸おう吸おうとするからアカンねん。吐け。吐けばおのずと入ってくるから」何が入ってくるのか。酸素。欲しい物ではなく必要な物である。


営業再開

相変わらずギターを弾く気にはなれないし、曲を書く気にもなれないが、とりあえず、ここに思った事や感じた事を書くことから始める。俺は俺の熱狂的ファンだから、俺が黙り続けている事ほど退屈なものはない。

昨日、高校時代の友人達と久々に会って呑んだ。みんな、相変わらず馬鹿で嬉しかった。子供の頃、人間というのは44、5歳にもなれば完全無欠の大人だと思っていたが、大人は一人たりともいなかった。まさかみんな、いい歳ぶっこいて入る店入る店で「すいません、予約でいっぱいです」と言われて居酒屋難民になるとは思わなかっただろう。でも、俺はそれが楽しかった。

彼らは俺を「いっけちゃん」と呼ぶ。懐かしい響き。思えばいっけちゃんは和田一憩でも和田怜士でもない。全くの別人格。つまり、俺は三重人格であると言える。三つも人格があれば、どれか一つくらいは好調でいてくれるだろう。

今、唯一好調なのはいっけちゃん。いっけちゃんに全権を委ねて当ブログを再開する。

久しぶりだないっけちゃん。

「営業を再開する!」


Just a moment.

久々に本を読んでいる。ゾクゾクするほど面白い。「面白い」と言っても、胸踊るという種類の面白さではなく、非常に染み染みとしたもの。おそらく、これを読み終えた時点で当ブログと音楽活動を再開する事になると思う。そんな気がする。

本を読んでいると、時間の流れというものが自分が思っているよりずっと緩やかなものである事に気付く。ついでに、自分がいかに無駄に神経質な人間であるかがわかる。いつも目と鼻の先で起こる些細な出来事に振り回されて、揺さぶられて、神経を毛羽立てている。

読書でリセット。腰を据えて穏やかにゆったりと新たな一歩を踏み出す。一冊の本がそれを可能にしてくれる事があるという事を思い出した。っていうか、自分が割と本が好きな人間であった事を思い出した。


臨時営業

⬆︎職場の阪神ファンの人からもらった折りたたみ式のサングラスをかけたらラッスンゴレライみたいになってしもた。


*初めて生野のコリアンタウンに行ってきた。一軒だけ火事さながらに猛烈な勢いで煙を上げている店があって、そこの豚カルビ焼きを食った。引き返して鶴橋商店街。この商店街は昔から好きでよく行ったが相変わらずだった。チヂミ屋の前にチヂミ屋があり、そのチヂミ屋の隣にチヂミ屋があった。

*Facebookをやめて、ネットでサポートメンバーを募集するのもやめた。人と繋がりを持ったり持とうとしたりする事をやめるのも「断捨離」と言えるのではないか?捨てる事で作ったスペースに今本当に必要なものを迎え入れれば良い。

*棚からぼた餅。驚くほど純粋に音楽が好きな人と知り合った。年齢も音楽の趣味も違うが人間的に純朴で癒される。名刺代わりに「YouTube観て」と言ったら、後日「『悪魔と呼んで』が好きです!」と言ってくれたので嬉しかった。

*気力が萎えて仕方ないのでカーネリアンという赤い石でできたブレスレットを買った。皇帝ナポレオンが生涯大切にしていた石らしい。風呂に入る時以外は常に身に付けている。

*2日間で25万人を動員。チケットが僅か6分でソールドアウトになったというオアシスの伝説のライブが「ネブワース1996」というタイトルでCD化されたので予約して買った。恐るべきリアムの声。腹の底…いや、腹の底の底…いや、腹の底の底の底から出ている。それから、意外にボーンヘッドの弾くギターがカッコ良かったりする。

*今さらながら気付いた。よっちゃんイカのパッケージのデザインは数ある駄菓子のパッケージのデザインの中で一番カッコいい。


イベント出演中止のお知らせ

この度、和田怜士が12月12日に予定されていたイベントへの出演を見合わせる事と致しましたのでご報告致します。

コロナ云々ではない何らかの理由。その内容は私どもスタッフも存じ上げませんが、怜士の表情から感じ取る事が出来るのは「ネガティヴな心理から成った決断ではない」という事です。これはおそらく、本格的な攻めの予兆であって、守りに入ったわけでも逃げたわけでもないと捉えています。

怜士にとって今年唯一となるはずであったステージ。それは、故郷伊丹での最後のステージとなるはずでもありましたが、そのような事は、これを敢えて取り止めるという決断の中にある「らしさ」と、そこから新たに始まるものに比べれば取るに足らない事なのでしょう。

何かが始まる。そんな予感が私どもスタッフだけではなく、怜士の音楽を高く評価して下さっている方々の中にも芽生えますよう、切に祈ります。

海賊ライチrecords   本田純正


大口叩きの雷太鼓

「今さらオリジナリティのあるものなんて出てくるわけがない」なんてことを頭ではなく細胞レベルで思い込んでしまっているような奴らの前に突然オリジナリティのあるものが出てきたらそいつらは何て言うのか。こう言うに決まっている。

「わからない」

己の知識の乏しさを棚に上げながらその乏しい知識の範疇でしかものを見ることのできない輩を相手にしてイライラすることのなんと馬鹿馬鹿しいことか!

考えてみれば、アーティストとしては「わからない」と言われている間が華。あいつらに「いいね」なんて言われるようになったらそれこそ終わりだ。

さあ、気を取り直して闘おう。やっぱり俺は闘わねばならんし闘いたい。馬鹿みたいにヨダレ垂らしながら「楽しいな♡嬉しいな♡」では楽しくも嬉しくもない。分かっている。あくまで俺の中での闘いだ。なにしろ「わからない」奴らは自分が負けたこともわからんし、負けて殺されても自分が死んだということすらわからんのだから。

これまでとは別のやり方でさらに圧倒的に。分かりやす過ぎるくらい分かりやすく圧倒的にいかないと。律儀に回りくどく式を与えるんじゃなくて、無愛想にいきなり答えを食らわせないと。式を与えて「分かるよな?」ということの無駄はもう痛いほど思い知った。

人間、雷に打たれたら死ぬ。即死。綺麗さっぱり何も残らないという。どうせ殺すのならそのくらい圧倒的にいきたい。


苦悩

できるかどうかわからない12月のライブを最後に伊丹を離れる。と言って、その後、どこで何をすれば良いのかさっぱりわからない。どうせ、どこで何をやってもまともに評価してもらえはしないだろう。

情けないことに、最近はギターを弾く気にも曲を書く気にもなれずにいて、実は、結構滅入っている。が、誰に相談すれば良いのか。誰が話し相手になってくれるのか。誰が分かってくれるのか。薄情な嘘つきばっかりで楽しくも嬉しくもない。ただ苛々するだけ。

音楽。恐ろしく頭の悪い女。でも、誰よりアンタのことを好きなのは俺。

頼むから、ぼちぼち助けてくれ。

もたん。

人が本気で悩んでるのにいちいちヘラヘラ笑うな!