沈黙の決壊

先程から、「情熱の維持」という言葉が頭の中を駆け巡っていて、ややもすると、「情熱の意地」と化しそうな勢いである。

もの作りたる者、作品の輝きで魅せたい、唸らせたいと思うのは当然のことだけれども、それとは別に、もしくはそれと並行して、情熱の枯渇しない人間の姿を見せ続けることで魅せる、唸らせるということもまた、大切なことなのかもしれないな、と、ふとそんな考え方が頭をよぎった。
その為にはやはり、めちゃくちゃな努力が必要で、そしてそれは、一種独特な努力の形だろうと思う。

最近、私自身への自戒の意味合いを、多分に含んだ形で気付かされるのは、人の、自らの情熱というものに対する危機感があまりに乏しいということだ。
心の中に小さな池、下手すりゃ「水溜まり」があり、そこに、何の根拠もなく盲目的に、コンスタントに雨が降り注いでくれるものと信じ込んでいる。天候の変化や、それに伴う水量の微妙な増減に対してあまりに疎く、完全に見て見ぬフリを極め込んでしまっている。
間違った「運を天に任せる」式思考は、時間の経過と、自分の老いに対する無闇な恐怖心を生んで、この恐怖心を恐怖心だと認めたくない気持ちが出てくると今度は、この気持ちから逃れようとして、「これはね、この考え方はね、この諦観こそはね、社会人としての身だしなみなんだよ。」などという無茶苦茶な理屈を我が物顔にホラ吹いて歩くということになってしまい、これは、これこそは、私の思う最低な大人像の最たるものであって、社会人としてどうのこうのという以前の問題だと思う。

才能が情熱を支えるのか、情熱が才能を支えるのかといったことはよくわからないし、そんな順序など別にどうでも良いが、いずれにせよ、水量に限りある池、もしくは水溜まりであって、一週間も日照りが続けば、もうそれだけで干上がってしまう可能性のある実に危ういものなのだから、絶えず、天候の変化や水量の増減には細心の注意を払って、何かしら手を打たねばならん時には随時適切な手を打って、水量の安定にこれ努めねばならんのではないか?と最近、切実過ぎるくらい切実に思うのである。

誰に教わるでもない自分の努力の形が、きっとある。


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