核ボタン

以前の私は、自分のその都度その都度の決断について、いちいち説明することができた。それはきっと、「頭止まり」の決断だったからで、思考の全てが言葉の範囲内にあって、だから説明はできたけど、その決断について後々「正解だった」と胸を張って言える確率は5割に満たなかった。説明はできても、間違っていることが多かった。

最近の私は、自分の決断について、説明することができない。説明できないにも関わらず、不思議と自信があり、自信があるから、その都度の決断の大きさも、以前より大きなものになってきている。
以前は、それがたとえ小さな決断であっても、綿密に、説明できるまで考えて、「説明できる駅」まで来たら下車して、決断を下していたが、今は決断の大小を問わず、やはり綿密に考えはすれど、説明できる駅で下車せずに、さらに考えて、「考える」ということの向こう側まで突き抜けて、自分が自分の意思や意志の外に出るまで待って、自分が自分の意思や意志を完全に無視して決断を下すに任せている。だから最近は、「気が付けば決断していた」みたいなことになっている。

考えている自覚のある間は、まだ決断を下すタイミングではないと思っている。ある意味、決断は「下す」ものではないと思っている。手元にボタンがある間は駄目だ。頭は、パンクさせてナンボだと思っている。
もし今、「『決断』を一言でいうとしたら?」と問われたら、こう答えると思う。

「爆発」


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