どこか真面目に収穫を待つ

Facebookって一体何なんだろう…なんてことを考えちゃいけない。真面目にやってたら人間不信になる。Facebookとはそういうものである。だいたい、ただの知り合いを、下手すりゃ知り合いとも呼べない人を「友達」などと呼ぶ軽薄な世界であるから、利用する人間もまた、適当に軽薄であることに努めるべきである。友達に軽薄なことをされたらそりゃ傷付きもするだろう。でも、それは友達ではない。それを分かっていながら分かっていないフリをして「友達」と呼ぶ軽薄さでもって身を守りながら利用する。そんなFacebookにもいくつか利点はある。

もし、「自分は好きな人としか関わらない」なんて言う人がいたら、その人の人生は困難を極める。時には嫌いな人とも関わっていかねばならないのが人生。さりとて「Facebookで嫌いな人と繋がりを持とう」なんて馬鹿なことを言うつもりは毛頭ない。そんな無意味なことはせんでも宜しい。俺が言いたいのは、「好きでも嫌いでもない人と繋がりを持つ時、Facebookは非常に有効だ」ということである。

世の中には、好きでも嫌いでもないけど繋がりを持っていればなんらかの利をもたらしてくれる人というのがいる。そして、それが持ちつ持たれつでお互い様だという場合にはFacebookがもってこいだ。お互いにそういう関係だと割り切って利用すればFacebookの「軽薄さ」を「潔さ」に転換することができる。他にも、草の根的な情報が拾えたり、ごくごく稀ながら凄く面白い記事を書く人がいたりと、利点と呼べそうなものはある…が、Facebookの本当の利点、楽しみ方は別にある。それは、Facebookそのものの軽薄さが作用してか、本当に軽薄な人とそうでない人との違いが露骨に出るということである。

リアクション、されてもしない人。リアクションをする余裕がないほど無駄に「友達」を増やしておきながらさらに増やす人。コメントに対してまともな返事をしない人。ただひたすらに好感度を上げようと躍起になっている人。こんな人たちがいるかと思えば、毎日のように律儀に全ての記事を読んでリアクションをする人がいたり、コメントを寄せてくれたことに対して感謝の気持ちを感じさせる返事を欠かさない人がいたり、誤解を恐れずに心のこもった文章で本音を語る人がいたりする。「この人は良い人だな」「こいつは駄目だな」というのが手に取るように分かるから、面白いと言えば面白い。

俺はどうも軽薄になり切れない。どこか真面目にやってしまっている。だから、自分の「友達」の中に真に軽薄な奴がいることに気付くと躊躇なくバッサリ削除して量より質に徹してしまう。その結果、現在、「友達」の数わずか24人。やり始めて3年くらいになるけど、それで24人は普通に考えれば少な過ぎる。でも、少数精鋭。これで良い。

最近、「友達」の中に「」をはずしたい人がチラホラ出てきた。そういう意味では「たかがFacebook、されどFacebook」だと思う。ま、ライブを観に来てくれるのはいつも当ブログの読者の皆さんであって、Facebookの「友達」は一切集客に結びつかないんだけどね。そういうところはドライと言うかなんと言うか…軽薄だな。

俺も「友達」のライブって基本観に行かないからお互い様か(笑)


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