踊りたい

私は、本当は全然浮かれていないのである。微塵も調子にノっていないのである。浮かれたくても浮かれられず、調子にノりたくてもノれない―元来、私はそんな人間なのである。

でも、私はなんとなくわかっている。浮かれるべき時に浮かれられず、調子にノるべき時にノれないから、流れが持続せず、ジリジリと落ちていくんだということを。

私には、自分の中に浮力を感じると、その逆方向に重りになるものをぶら下げようとする悪い癖がある。で、その重りがいつもちょっと余計に重くて、結果、落下してしまうのである。

しかし、今回ばかりは、流れを手放すわけにはいかないのである。落ちていくわけにはいかないのである。何とかせねばならん。「何とかせねばならん」ったって、ただ素直に浮かれて、自然に調子にノれば良いだけの話なのであるが、臆病な私にとって、これほど難しい話もないのである。

ひょっとしたら、私が「踊る」ということができないのは、私のこういった気質に起因するのかもしれない。

踊らねば。浮かれてノって、踊らねば。


パルプンテ

「我が道を行く」には、豪胆である必要がある。

私は、空気を読めない人間や、鈍感な人間のことを心底忌み嫌う一方で、実はめちゃくちゃ羨ましいとも思っている。何故か―彼らが非常に豪胆に見えるからだ。
本当は豪胆でも何でもない。ただ鈍感なだけで、鈍感がゆえに傷付きにくいというだけの話なのだが、どんな理由であれ、傷付きにくいというのは羨ましい。羨ましいけれども、彼らは鈍感であるがゆえに無意識の内に人を傷付けもするから、やはり忌み嫌わざるを得ない。

豪胆というのは、空気が読める、鈍感でない人間だけがなれるものだと思う。でも、どうやったらなれるのかがさっぱりわからないので、私の場合、とりあえず「ロックンロール」を連呼して、自分を騙し騙し生きている。

自分を騙す―簡単なことじゃない。結構難しい。でも、それが出来てしまう「ロックンロール」という言葉はやはり、なかなかの呪文だと思う。

―お前、そんなんじゃ駄目だよ。もっとあれをこうして、これをああしなきゃ。

―いいんです。僕、ロックンロールなんで。

最低かもしれない。でも、少なくとも、生きてはいける。


心の軍師

無駄な思考を止めて重心を下げよ…

動じるな…

お前はお前だ…

見るな…

聞くな…

気にするな…

安定感をもってジリジリと前進せよ…

突撃だけが攻めではない…

沈むな…

維持せよ…

私がついている…


だらしがないぞっ!

ゴミのような人間にさえ、嫌われたくないと思ってしまう。

自分のことを嫌ってくる人間のことを好きになれるわけがなく、「ゴミのような人間」などと言って、こちらとしても大いに嫌うが、この感情の流れ自体が、全っ然面白くない。楽しくない。

誰かを嫌う気持ちというのは、基本的に悲しい。非生産的で、ただただ重くだらしない。


頭の中にあるものは

頭の中にあるものは、捨てたもんじゃない。

頭の中にあるものが、もう少し目に見える形で、表に出てきてくれないかなと思う。これじゃあまりにみすぼらしい。

「違うんです!本当はこんなんじゃないんです!」

いつまでも蝶になれない芋虫を思う。


虫がいる

金は人間をナメている。

物も人間をナメている。

どんなに卑劣なことをされても、何度裏切られても、追いすがって、着物の裾にしがみついて、「それでもあなたを愛してます」みたいなことを言ってるからだ。

金の言葉を喋っている人間がいる。

物の言葉を喋っている人間がいる。

金の心を生きている人間がいる。

物の心を生きている人間がいる。

人格の下にあるべきものを、人格の上に置こうとする人間がいる。

それは決して、別世界の人間ではない。

めちゃくちゃ身近にいる。

いっぱいいる。

虫みたいだ。


金輪際惚れない

家にいるよりも、外へ出て働いている方がずっと気が楽だったので、介護士にとっては当たり前とも言えるサービス残業2、3時間というのも、決して苦ではなかったんですよ。それから、そうして忙しく働くことによって、自分の中から「またバンドをやりたい」という邪念(あの頃は本当に「邪念」だと思っておりました)が湧き出てくるのを必死に圧し殺していたような気もします。

私は、以前にも申し上げましたように、労働というのは、時間を売る行為だと思っています。あの頃、私は私の中で「もうこれ以上は無理だ」というスピードで時間をたくさん売りました。でも、その結果、大阪から伊丹に戻ってきた時、愕然としました。悲しいほどに、自分の手元に何も残ってなかったんですね。金もないし、物もない。「俺、持ち物、ない」と思って、笑ってしまった。自分で処理をしたと言えば自分で処理をしたんだけれども、それにしても、あまりに何も残らなかった。時間を大量に売った記憶だけが残って、手元には何も残らなかった。

金も物も「いらない」とは言いませんよ。金もいるし、物もいる。いるものはいる。そんなことは百も承知です。でも、あの経験を経て、金や物に対する執着心みたいなものが、ある程度、死んじゃったみたいです。基本的に、金や物を信用しなくなっちゃいました。だってあいつら、いとも容易く人間を裏切りますからね。人間に対する忠誠心みたいなものが微塵もない。

人間が、金や物に対して愛着や執着を持つことは多々あっても、金や物が、人間に対して愛着や執着を持つことは絶対にないんだということを思うと、なんだか絶望的な片想いみたいで、そんな絶望的な片想いはやめるに越したことはないと、私は考えております。

はい。


『浦島さん』より/太宰治

言葉というものは、
生きている事の不安から、
芽ばえて来たものじゃないですかね。
腐った土から赤い毒きのこが生えて出るように、
生命の不安が言葉を醗酵させているのじゃないのですか。
よろこびの言葉もあるにはありますが、
それにさえなお、
いやらしい工夫がほどこされているじゃありませんか。
人間は、よろこびの中にさえ、
不安を感じているのでしょうかね。